2017/05/22

松山千春 #2 1990年

今回は1990年の出来事です。

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1990年のぼくはとても多忙だった。
1月と2月は松山千春さんの「厚生団コンサート」と銘打った、全国7カ所の厚生年金会館でのコンサートツアーが開催された。
1/15〜23が都内でのリハーサル、1/27金沢、29名古屋、30大阪、2/1広島、2小倉、13東京、15札幌という日程だった。

厚生年金会館ツアーが終わると、今度は目黒のKey Stoneスタジオと箱根のSound Boxスタジオの2カ所で、石渡長門くんのデモテープのレコーディングが始まった。
箱根のスタジオは6日間の日程での合宿レコーディングだった。レコーディングのためのミュージシャンも一緒に箱根入りした。ベースは江澤くんにお願いをした。ぼくは再び江澤くんと浜田省吾さんのツアー以来、また一緒に演奏することが出来てとても嬉しかった。ドラムの大久保敦夫くんにも箱根まで来てもらって何曲か叩いてもらった。

3月も石渡長門くんのレコーディングが行われた。
3/4〜4/1までの間、再び場所をKey Stoneスタジオに移して、石渡くんのレコーディングが続いた。

4月からは松山千春さんの春のツアーがスタートした。全国29カ所32公演のツアーだった。
4月〜6月の3ヶ月間、びっしりとコンサートスケジュールが組まれていた。3ヶ月の間ほとんど旅に出ているような毎日だった。
その過密スケジュールの間を縫うようにして、レコーディングの日程が入っていた。TVアニメ「YAWARA!」のレコーディングだった。ぼくは劇中で流れる2曲のアレンジとサウンドプロデュースを担当した。内1曲は石渡長門くんの曲が採用された。

このレコーディングでは、主人公である猪熊柔役の声優の皆口裕子さんにも一曲歌っていただいた。とても好きな声優さんだったので、自分のアレンジした楽曲を歌ってもらえてぼくは光栄だった。

7月は「YAWARA!」のレコーディングの続きと、中森明菜さんのテレビ出演のためのバンドのリハーサル、石渡くんと同じくキティレコードの新人、吉井賢太郎(現ヨシケン)くんのデモテープのレコーディングと、千春さんのリハーサルが入っていた。

ひょんなことからぼくは中森明菜さんの、復帰第一弾のお手伝いをさせてもらうことになった。暫く休養していた中森明菜さんが、約1年3ヶ月ぶりに活動を開始して発表したシングル曲の「Dear Friend」を、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」で生演奏した。放映は8月22日だった。
当時はまだお台場ではなく、新宿にあったフジテレビのスタジオでのカメラリハーサルで、初めて明菜さんにお会いした。間近でお会いした中森明菜さんは、笑顔が素敵な美しい大人の女性だった。
ぼくは久しぶりのテレビの仕事に少し緊張したが、緊張している暇もなくあっという間に本番は終了してしまった。

8月は松山千春さんの野外イベントが、長野県の白馬と兵庫県の神戸で行われた。
白馬での野外ライブは、もの凄い迫力でそそり立つ北アルプスの山々がステージ上から見渡せるという、絶景の中での最高に気持ちの良いコンサートだった。
ぼくは本番までの時間、会場の横を流れる清流で水遊びをして過ごした。素晴らしく綺麗な川の水で、そのまま飲んでも大丈夫そうなくらい澄んだ水で恐ろしく冷たかった。天気も良くてぼくはすっかり日焼けしてしまった。

神戸六甲アイランドシティでの野外ライブは、東京から乗車予定の新幹線がトラブルで運行中止となり、急遽飛行機での移動となるハプニングもあって、会場への到着が本番直前になってしまったため、リハーサル無しのほとんどぶっつけ本番の中で行われたが、逆にそれが功を奏したのか、とても盛り上がるコンサートとなった。

8月の末には再び吉井賢太郎くんのレコーディングで、数日間箱根のスタジオに籠った。

9月になると、シンガーソングライター山本英美くんのリハーサルとライブがあった。英美くんとは、ぼくがお世話になっているイベンターの方からの紹介で知り合い、ぼくは英美くんのバンドのメンバーとして参加することになった。

9月後半からは千春さんの秋のツアーのリハーサルも始まった。
千春さんのリハの狭間の9月27日、吉井賢太郎くんのコンベンションライブが東芝EMIスタジオで行われた。この日のコンベンションライブは、レコード会社に対してのプレゼンテーションのための、オーディションのようなライブだった。スタジオの中に集まった観客はレコード会社の役職の方や、ディレクター、プロデューサー等全員が業界人。普段のライブとは全く違う異様なムードの中でのコンベンションだった。
ぼく達サポートバンドも、そのヒリヒリとしたムードを感じながらやや緊張しつつ演奏をした。

10月3日から松山千春さんの秋のツアー「男達の唄」がスタートした。3ヶ月で全国39カ所41公演を行うという超ハードなツアーだった。
ツアーの空き日だった10月15日には、ぼくの大好きなアメリカのカントリーロックバンド「POCO」の来日公演が、東京中野サンプラザで行われた。ぼくはずっと待ちこがれていたコンサートだったので、既にチケットも入手してこの日が来るのを楽しみにしていたのだが、ツアーの疲れからか風邪をひいて高熱が出て、POCOのコンサートに行くことが出来なくなってしまった。痛恨の事態だった。すごく残念だったが仕方がなかった。

まだ風邪が治りきらない10月21日、鈴鹿サーキットで行われたF1グランプリを日帰りで観戦しに行って来た。
初めて間近で観るF1カーの迫力とスピード、エンジン音にぼくはノックアウトされた。
当時ぼくは中嶋悟選手の走りに夢中だった。納豆走法などと揶揄されることもあった中嶋選手の走りは、生で観るのとTVで観るのとはまるで違ってもの凄く速かった。その走りはまるで敷かれたレールの上を走っているかのように、コーナーでも非常に安定していた。中嶋選手は全然遅くなかった。

11月は千春さんのコンサートと、山本英美くんのコンサートで息つく間もなかった。

12月もびっしりと千春さんのコンサートが入っていた。
12月6日に行われる高松での公演のため、ぼくは羽田から高松行きの飛行機に乗り込むと、機内で元チューリップの姫野達也さんとばったりお会いした。姫野さんはぼくが浜田省吾さんのバンドを脱退した後に、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた。

ぼくは以前から姫野さんとは面識があったので、姫野さんの席まで挨拶をしにいった。
すると姫野さんは、浜田さんのコンサートのため高松に行くところだと言った。
何と同じ日に同じ四国の高松で、千春さんと浜田さんのコンサートが行われるということだった。ぼくはそんなことはまるで知らなかったのでとても驚いた。
この日、千春さんは高松市民会館、浜田さんは香川県県民ホールでの公演が予定されていた。

高松市民会館での千春さんのリハーサルが終わった後、ぼくは本番までの短い時間を利用して、タクシーを飛ばして香川県県民ホールに向かった。高松市民会館からはほんの数分程の距離だった。
香川県県民ホールに到着し楽屋にお邪魔すると、懐かしい顔ぶれの数々がぼくを迎え入れてくれた。浜田さんのところもちょうどリハーサルが終わったばかりで、みんなステージから楽屋に戻っていた。楽屋の廊下ではたくさんのスタッフが行き来していた。

バンドメンバーやスタッフ達との嬉しい再会を果たした後、ぼくは浜田さんの楽屋を訪ねた。
浜田さんもぼくをとても歓迎してくれた。浜田さんとは今年の冬に新宿厚生年金会館で会ったばかりだったので、そんなに久しぶりというわけではなかったのだが、東京ではなく旅先で会うと言うのはまた感慨深いものがあった。
短い時間ではあったが、ぼくはみんなと再会出来たことが凄く嬉しかった。

またタクシーを飛ばして慌てて高松市民会館に戻ったぼくは、興奮気味にそのことを千春さんのバンドのメンバーに話すと、バンドのみんなもとても喜んでくれた。

高松でのコンサートが終わって打ち上げから戻ったぼくは、どうしようか何度も躊躇したが、今日の感謝の気持ちを伝えたくて、思い切って浜田さんが宿泊しているホテルに電話をした。フロントに事情を話して浜田さんの部屋に繋いでもらおうとしたが、すでに浜田さん達は次の公演地である徳島に向けて出発してしまったとのことだった。
感謝の言葉を伝えられなかったのは残念だったが、出過ぎた真似をしてしまったかもしれないと、すでに後悔しだしていたので、浜田さんに電話が繋がらなかったことで、ちょっとホッとしたことも事実だった。

12月も札幌での最終公演まで絶え間なくコンサートが続いた。
クリスマスの札幌公演が終了して帰京し、ようやくぼくも一息つくことが出来た。

年の瀬を迎え、間もなく1990年も終わろうとしていた。
浜田さんのバンドを脱退し、千春さんのバンドに加入してもうすぐ2年が経とうとしていた。

松山千春さんのツアーにて。1990年頃。

2017/05/15

松山千春 #1 新たな船出

浜田省吾さんのバンドを脱退したぼくは、松山千春さんのツアーに参加することとなります。今回はそんな話を。

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1989年の春に浜田省吾さんのバンドを正式に脱退したぼくは、当然ではあるがいきなり何も仕事が無くなってしまった。この先どうするか何のあてもないまま脱退してしまったため、早急に新たな仕事を探す必要に迫られた。とはいうもののこの時点では本当に何のあても無かった。

ひとまずぼくは片っ端から知り合いのミュージシャンや業界の方々に電話をした。
当時のぼくはマネージメント・オフィス等に所属していなかったため、全くのフリーランスとして活動していた。

いろんな人に連絡をした結果、何件かのオファーをいただいた。
その中のひとつに、知り合いのミュージシャンから松山千春さんのバンドがキーボード奏者を探しているという話があった。
なんでも千春さんのバンドがメンバーを一新するらしく、他のパートは決まったのだがキーボードだけがまだ決まっていないとのことだった。
ぼくは是非とも推薦してくれるよう、知り合いのミュージシャンに頼んだ。

後日千春さんのバンドのリーダーの方から、是非参加して欲しいとの連絡をもらった。多少の不安はあったが、ぼくは松山千春さんのバンドに加入することになった。新たな船出の始まりだった。

ツアーは4月からスタートとのことで、すぐにリハーサルが始まった。
ぼくは浜田さんのバンドを脱退した感傷に浸っている場合ではなくなった。

千春さんのバンドでのぼくの担当はピアノではなく、シンセサイザー関連を受け持つことになった。
これはぼくの方からリクエストをした。長年浜田さんのバンドでピアノを弾いていたことと、当時のシンセサイザーブームも手伝ってか、ぼくはそれまでと違うポジションにチャレンジしてみたかった。

千春さんのバンドに加入した最初の頃は、あまりの環境の変化に戸惑うことばかりだった。
中でもいちばん驚いたのは、千春さん本人がリハーサルに殆ど現れないことだった。千春さんは北海道在住のため、上京した際にリハとゲネプロ(本番さながらの通しリハーサルのこと)をまとめて行うようなシステムになっているとのことだった。
よって、本人不在の間のリハーサルの進行は、バンドリーダーに一任されていた。

リハーサルを重ねるにつれ、次第に現場の雰囲気とバンドメンバーとも打ち解けて来て、ぼくは徐々にペースを掴む事が出来た。
新たなパートであるシンセサイザー周りも、音作りの楽しさとピアノとはまた違ったアンサンブルの深さに魅了されていった。
バンドメンバーも素晴らしいミュージシャンばかりだった。

1989年4月2日、松山千春の春のコンサートツアー「蒼き時代の果てに」がスタートした。全国31カ所34公演というスケジュールが組まれていた。
千春さんのコンサートツアーは毎年春と秋の二回行われていて、夏はイベントが数本というスケジュールが組まれていた。
4月から始まったツアーは、ツアー途中で急遽ピアニストが交代するというハプニングもあったが、それ以外は順調にぼくも乗り切ることが出来た。

春のツアーが終了して、7月の終わりに仙台泉パーク・スポーツガーデンという斜面を利用した会場で、松山千春の野外イベントが行われた。
ぼく達バンドは前日に仙台入りした。するとその日に同じ場所でロバータ・フラックのコンサートが行われているということを聞いて、ドラムの小林くんと観に行った。芝生に寝転んで夏の夜風に吹かれながら聴くロバータ・フラックのコンサートは最高だった。

8月は山形県米沢市営競技場、岩手県市営花巻野球場、山形県酒田市北港特設ステージ、新潟小針浜特設ステージで野外コンサートが行われた。真夏の野外コンサートは暑さとの戦いでもあったが、どの会場も開放的な雰囲気でとても楽しかった。

10月からは秋のツアー「ISHI」がスタートした。
12月末の札幌公演までの全国36カ所41公演のツアーだった。

ぼくは89年の春に浜田省吾さんのバンドを脱退し、松山千春さんのバンドに加入してから約80本のコンサートを行った。浜田さんのコンサートと合わせると89年は約100本のコンサートを行ったことになる。浜田さんのバンドを脱退した時、身も心も疲れ果てていたぼくだったが、結局あまり休む間もなく、また例年と同じような生活に戻っていた。それでも違った環境に身を投じたことに、ぼくは疲れよりも充実感を感じていた。

年が明けて1990年の1月に、全国の厚生年金会館で行われた「松山千春スペシャル・コンサート」が開催(全国7力所7公演)された。
この東京公演が行われた新宿厚生年金会館でのコンサートの楽屋に、浜田省吾さんが訪ねて来てくれた。
約一年ぶりの浜田さんとの再会だった。結果的にあまり後味の良くない去り方をした(と当時自分ではそう思っていた)ぼくに、浜田さんが会いに来てくれたことがぼくは無性に嬉しかった。いや、ひょっとしたらそうではなくて、浜田さんは松山千春さんに会いに来たのかもしれなかったが、それでもぼくは嬉しかった。

浜田さんは最後までコンサートを観て行ってくれた。千春さんも浜田さんが来てくれたことが嬉しかったようで、コンサート中のMCでも浜田さんが来ていることを告げていた。
終演後、再び楽屋に来た浜田さんは、ぼくに良い演奏だったと声をかけてくれた。その後浜田さんと千春さんが談笑している姿を見ていたぼくは、何とも言い表しようのない複雑な気持ちになった。

松山千春の90年春のツアーは、4月19日から32本のスケジュールが組まれていた。
ツアーが始まって中盤を過ぎた初夏のある日、ぼくは浜田さんと二人で逢う機会があった。

浜田さんとしばらくいろんな話をした後、ニューアルバム「誰がために鐘は鳴る」の話題になった。浜田さんはぼくに尋ねた。「板さん、出来たばかりの今度のニューアルバム、聴いてくれた?」「はい、聴かせてもらいました。とても素晴らしい作品だと思いました。ただ聴いている内に胸が痛んで苦しかったです。」ぼくは正直な感想を述べた。

ぼくは今回のアルバムの内容と自分を投影して聴いていた。当時のぼくにはどうしてもそういう風に聴こえてしまうような作品だった。
「そうか。」そのことに関して浜田さんは多くを語らなかったが、ちょっと寂しそうな表情で笑ったのがとても印象に残った。

千春さんのツアーに帯同するようになって1年が過ぎ、多忙で充実した日々を送りながらも、どこか心にぽっかりと空いてしまった穴が埋まるための時間が、まだまだぼくには必要だった。

1990年頃、本番前の楽屋にて。何故か虚ろな表情(笑)

2017/05/05

浜田省吾 #35 脱退

「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」ツアーが終わった後、ぼくは浜田省吾さんのバンドを脱退しました。今回はその話を。

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1989年の春、ぼくは約10年間在籍した浜田省吾のバンドを脱退した。

ぼくが浜田さんのバンドを脱退した時、随分といろんな噂を耳にした。中でも一番多かったのがぼくが当時新婚で、ツアーの度に家を空けるのが嫌だったからバンドを脱退したというもの。
全くのお門違いだった。ぼくは新婚ではなかったし、旅に出ることも別に嫌ではなかった。
他にも随分といろんな誹謗中傷の類いも受けた。謂れの無いことでぼくは傷ついた。
でもどれも的外れの噂話でしかなかった。

1988年3月17日からスタートした「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」ツアーの後半戦が、9月12日の鹿児島市民文化ホールからスタートした。89年2月7日の大阪城ホールまでの計51本のツアーだった。途中体調を崩しかけた時期もあったが、前半戦と合わせて約100本、1年間に及ぶ大規模なツアーは無事終了した。
ただひとつだけ今までのツアーと違ったのは、自分でも説明のつかない苛立ちにも似た感情と、隣り合わせになりながらツアーを廻ったことだった。

ツアーが終わって間もなく、浜田省吾のニューアルバムのレコーディングスケジュールが組まれていた。今回もバンドのメンバーでレコーディングを行うことが決まっていた。
と、そこにベースの江澤くんがバンドを離れることになった、という知らせが舞い込んで来た。
ぼくは次のツアーもレコーディングも、現行のメンバーで行うものだとばかり思っていたので、この知らせは全くの寝耳に水だった。
ぼくはすぐに江澤くんに電話をしてどういうことなのか尋ねた。

ぼくは江澤くんのミュージシャンとしてのセンスと才能をリスペクトしていたので、彼の脱退はかなりのショックだった。彼とは10代のアマチュアの頃からの知り合いで気心も知れていたので、ツアー中も一緒に行動を共にすることが多かった。ぼくは江澤くん脱退の知らせを聞いてから、自分の中で何かが変わって行くのを感じていた。

他にもいろいろな事が幾重にも折り重なって、段々とぼくはそれまでと同じような気持ちを保つことが難しくなっていった。そして次第にぼくは浜田さんのバンドを辞めることを考え始めていた。
そんな風に思うようになったのは、江澤くんが辞めることになったことがきっかけではあったが、彼が抜けるから自分も、と言うような単純な理由では全く無かった。

浜田さんの音楽感との距離感、思っていることとやっていることの違いへの苛立ち、自分のアイデンティティとは?等々、そんなことを延々と逡巡していた。
今だったら笑い飛ばしてしまえるようなことも、当時のぼくには容易いことではなかった。

浜田省吾のバンドに在籍していることは名誉なことだったし、日本のシンガーソングライターの中では一番リスペクトしていたし、自分と浜田さんの価値観や感性が近いと感じていたし、浜田さんがぼくのことを信頼してくれていることも理解していたし、勿論そのことに深く感謝していた。

ぼくは約10年間浜田さんのバンドでキャリアを磨いて来て、ミュージシャンとしても一人の人間としてもとても影響を受け、そしてこの10年で自分なりにも成長出来たと感じていた。
このまま浜田さんのバンドにいれば、しばらくは安定した音楽人生を送れるだろう。しかしながら、それを許容出来なくなっている自分がいた。

ぼくはそんなことを何日も何日も考え、自問自答を繰り返し苦しんだ。そして結論を出した。
「浜田省吾のバンドを脱退しよう」。
全くのぼくの独断とわがままだった。

ぼくはぼくの中で複雑な知恵の輪のように絡んでしまった、ネガティブな感情が制御出来なくなってしまっていた。心身ともにとても疲れて果てていた。

ツアーが終わってしばらく経ったある日、ぼくは思い切ってそのことを浜田さんに告げた。
浜田さんはぼくの話をずっと黙って聞いていた。そしてやがて重い口を開いた。
「板倉の気持ちはよく分かった。でももう一度考え直して欲しい。」
涙が出るくらい有り難い言葉だった。
「本当にすみません、でももうぼくは以前のようなパッションを持てなくなりました。」
「パッションって?」浜田さんが聞いた。「情熱…みたいなことです。」

長い沈黙が続いた。

重い空気を取り払うように、同席していたR&SのT社長が一言言った。「板さん、少し休暇を取るような気持ちでいれば。そしてまた戻って来たくなったら来れば良いし。」
T社長の暖かい言葉に、ぼくは申し分けない気持ちでいっぱいになった。

ぼくが辞めることを知ったバンドのメンバー達は、とにかく一度みんなで話し合おうと言うことで、世田谷のとあるバーに全員が集まってくれた。
そこでぼくにもう一度思い直すように、また今まで通りに一緒にやろう、と言うことを夜を徹して説得してくれた。
またしてもぼくは涙が出そうなくらい嬉しかった。メンバーからの熱い言葉にぼくの心は激しく揺れ動いた。

ぼくは少しの間、自分の気持ちと対峙する時間をもらった。

レコーディングスタジオでは、すでにニューアルバムのレコーディングが始まっていた。
スタジオでもぼくのためにスケジュールを調整して待っていてくれた。もうこれ以上、各所に迷惑をかける訳にはいかなかった。

浜田省吾の音楽は大好きだったけど、このまま自分の気持ちを封印してバンドに残れば、きっとぼくは浜田さんの音楽を愛せなくなってしまうだろう。

自分のわがままでみんなに迷惑をかけてしまうことは、本当に申し訳なく心苦しかったけれど、やっぱりぼくはバンドを脱退することにした。
1979年7月に浜田省吾のバンドに参加してから、もうすぐ10年の月日が経とうとしていた。

1988年9月16日 熊本市民会館。
リハーサル前のサウンドチェック。

2017/04/01

浜田省吾 #34 「A PLACE IN THE SUN 1988.8.20 渚園」

1988(昭和63)年8月20日、静岡県の浜名湖に浮かぶ弁天島のリゾート地「渚園」に、5万人とも5万7千人と言われた観衆を集めて行われた浜田省吾さんの三回目の野外イベント「A PLACE IN THE SUN」が開催されました。今回はその時の話を。

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1988年7月16日「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」の前半戦48本のツアーが終了した。仙台から帰京したぼくは、伊豆の下田で短い休暇を取った。

8月2日から17日まで断続的に約二週間、目黒のヤマハスタジオで「A PALCE IN THE SUN」のリハーサルが行われた。
バンドメンバーはThe Fuseの7人+ギターに水谷公生、パーカッションにペッカーの計9人。

スタジオに行くと早速コンサートで演奏する約30曲の曲のリストが渡された。
当日演奏する予定の曲は以下の通りだった。

1.路地裏の少年
2.終りなき疾走
3.モダンガール
4.バックシートラブ
5.ラストショー
6.HELLO ROCK&ROLL CITY
7.いつかもうすぐ
8.愛のかけひき
9.HOT SUMMER NIGHT (w/中村あゆみ)
10.街角の天使 (w/中村あゆみ)
11.WHAT'S THE MATTER,BABY?(w/中村あゆみ)
12.EDGE OF THE KNIFE
13.HARBOR LIGHTS
14.二人の夏
15.我は海の子(インストゥルメンタル)〜生まれたところを遠く離れて
16.MONEY
17.DADDY'S TOWN
18.DANCE
19.丘の上の愛
20.OCEAN BEAUTY〜マイホームタウン
21.東京
22.明日なき世代
23.A NEW STYLE WAR
24.僕と彼女と週末に
25.愛の世代の前に

アンコール
26.BLOOD LINE
27.J.BOY
28.DARKNESS IN THE HEART
29.RIVER OF TEARS
30.ラストダンス

浜田省吾初期の名曲から、最新アルバム「Farther's Son」までの中からの選りすぐった選曲だった。
ぼく達は二週間の間、昼過ぎから夜までみっちりリハーサルを重ねた。
終始リラックスしたムードでのリハーサルだったが、ぼくは浜田さんがいつもよりも少しナーバスになっているのを感じていた。

リハーサルの最中、ぼくはオーダーしていた近視用の眼鏡を受け取りに行った。仙台でのコンサートの最中に視力が落ちているのを実感して、眼鏡を作ることを決めた。初めての度付きの眼鏡だった。
リハーサルの間は度付きのレンズに慣れるために眼鏡をかけながら行っていたが、本番は眼鏡はかけないことにした。まだ眼鏡をかけてステージをやることに不安があった。

ぼくは本番二日前の8月18日の夜に車で浜松入りした。東名高速は土砂降りの雨だった。途中追い越して行くトラックの水しぶきが自分の車のフロントガラスにあたり、前方の視界が全く遮られるほどの豪雨だった。ぼくは慎重に夜の高速を運転をして、深夜に宿泊先であるグランドホテル浜松に到着した。

翌日8月19日は実際に渚園のライブ会場でのリハーサルだった。ホテルから会場である渚園までは、チャーターしたバスに乗って行った。小一時間程で渚園に到着した。渚園までは思っていたよりも遠かった。

リハーサルには今回ゲスト出演する中村あゆみも参加した。特に彼女が参加する三曲は入念にリハーサルを繰り返した。
当初は本番と同じ構成ですべての曲を演奏する予定だったが、日も暮れて暗くなって来た頃からから雨が降りだして来て、予定されていたメニューをこなすことが出来ずにリハーサルは途中で終了した。明日の本番に少し不安を残すこととなった。

明けて8月20日、いよいよコンサート当日がやってきた。前日の晩は緊張で眠れないかと思いきや、たっぷり7時間ぐらい眠ることが出来て体調も万全で当日を迎えることが出来た。
ぼくの記憶では当日も少しだけリハーサルをやったような気がするのだが、はっきりとは覚えていない。

この日は前日までの雨も上がり、幸いなことに天候にも恵まれた。
ぼく達はコンサート開始時刻になるまで、舞台裏に設置されたプレハブ作りの簡易楽屋で待機した。
プレハブ小屋の中はエアコンも効いていてそれなりに快適だった。

巨大なステージに置かれている楽器には、雨の場合を考慮してビニールシートがかぶせてあった。
特にぼくのキーボード群はビニールシートだらけで、ちょっと弾きにくくもあった。
ステージは客席に向かって緩やかなスロープになっていて、気をつけて歩かないと躓いてしまいそうだった。

本番前に楽屋で髪型を整えようとしてあれこれやっていたら、次第にぼくのアタマはヘンな髪型になってしまい、最終的にリーゼントのようになってしまった。
慌てて髪型を直そうとしていたら、舞台監督からステージに行くように促されて、ぼくはヘンな髪型のまま本番を迎えることになってしまった。

やがて夕刻になりコンサートが始まった。開演時刻は17時を少し過ぎていたと思う。
ぼく達バンドのメンバーと浜田さんは、巨大な白いテントのように覆われた幕の中でそれぞれのポジションに付き待機した。
テントの中は思ったよりも蒸し暑かった。

アカペラの「A PLACE IN THE SUN」が終わり、巨大なテントのような幕が解き放たれた瞬間、ぼくの目に飛び込んで来たのはもの凄い数の人、人、人。
今まで見たこともないようなたくさんの人が広大な敷地を埋め尽くしていた。
5万人とも5万7千人とも言われた人の海を目の当たりにしたぼくは、いきなり極度の興奮状態に陥ってしまった。
ドラムの高橋くんも、もの凄い人の数を見てハイテンションになり、フルパワーでドラミングをしてしまい、一曲目ですべてのエネルギーを使い果たしそうになってアセった、と本番後に語っていた。

一曲目の「路地裏の少年 」を演奏しながら、興奮を抑えきれないそんなぼくの様子が「ON THE ROAD FILMS」に収録されている。
ぼくは「凄い!凄いぜ!まるで群衆が麦畑のようだ!!」と一人口に出して叫んでいた。

残念ながら今となってはコンサートの内容や演奏中の気持ちを思い出すことは殆ど出来ないが、印象に残っているいくつかのことを列記すると、
・ステージから見えた浜名湖と夕日がとても綺麗だったこと。
・本番前も本番中も不思議なくらいリラックスしていられたこと。(ぼくはかなり緊張するほうなのだが、この日はとても良い精神状態で臨めた。)
・アルバム「CLUB SURFBOUND」から「HOT SUMMER NIGHT」と「HARBOR LIGHTS」の二曲を披露したこと。(おそらくこの二曲は、この時以外にはやったことは無いのでは?)
・コンサート終盤の「僕と彼女と週末に」と「愛の世代の前に」の時に、ステージ後方のイントレが開いて、円柱形の原子炉のような物体が現れたこと。(ぼく達は演奏しているので、本番中に実際に見ることは出来なかったが、リハーサルの時に確認していた。)

アンコールの最後の曲の「ラストダンス」が終わり、まだ観客の歓声が鳴り響く中、浜田さんとぼく達バンドのメンバーはステージから降りると、楽屋にも戻らずに衣装のままステージ裏に待機していたバスに飛び乗って会場を後にしていた。楽屋に置いてあったそれぞれの荷物は、スタッフがホテルまで運んでくれていた。
ぼく達はバスの窓からフィナーレを告げる打ち上げ花火を見ながら会場を後にした。
ぼくはバスの中でパーカッションのペッカーさんと固い握手を交わした。
約4時間に及ぶ圧巻のコンサートは幕を閉じた。

ホテルに戻ってシャワーを浴びた後、最上階のレストランで関係者も参加しての簡単な打ち上げが行われた。
ぼく達はまだ興奮醒めやらぬ中、訪れたゲストの方々とそれぞれ談笑を交わして和やかな時を過ごした。
ぼくはこの日も浜松に宿泊する予定でいたのだが、急遽予定を変更して、打ち上げ終了後に車で帰京することにした。

帰り道の途中、深夜の東名高速のサービスエリアに入ったら、そこかしこにこの日のイベントで販売されていたベースボールキャップ被ってタオルを首に巻いた人達がいた。
ぼくはそそくさとサービスエリアを後にした。

明け方近くに帰宅し軽く仮眠を取った後、家の近所を散歩していると、すぐ近くのマンションのベランダに「SHOGO HAMADA A PLACE IN THE SUN」と書かれたタオルが干してあるのが目に飛び込んで来た。ぼくの自宅のすぐ側からもイベントに参加した人がいたことが何だか妙に嬉しかった。

昨夜のイベントの熱気と、汗をたっぷりと吸ったであろうそのタオルは、夏の日の午後の日差しを浴びながら気持ち良さそうに風にたなびいていた。
そのタオルを見ながらぼくは昨日のコンサートのことを思い出していた。
つい昨日のことがすでに遠い過去のことのように思えていた。

ぼくのキーボードにビニールシートが被せてあるのが確認出来る。

2017/02/24

浜田省吾 #33 「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」

今回は1988年3月17日からスタートした浜田省吾さんのコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と食べ物の話など。

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1988年3月17日、「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と銘打った約100本に渡る浜田省吾の大規模なツアーがスタートした。
バンドはメンバーにキーボードの梁邦彦くんと、トランペットの小林正弘くんが加わってThe Fuseは7人編成になった。

ぼく達は前の日の3月16日に初日の公演地である宮崎入りした。
最初のツアーは、宮崎〜大分〜小倉と廻る全6公演10日間の旅だった。宮崎での宿泊はリバーサイドホテルという、その名のとおり大淀川沿いに立つホテルだった。ホテルの裏手には有名な釜揚げうどんの店があった。
コンサート初日の会場入りする前に、ぼくは早速ベースの江澤くんとその釜揚げうどんの店で昼食を食べた。噂に違わずとても美味しいうどんを堪能した。

宮崎公演は17,18日の二日間公演だった。初日のコンサートこそ緊張したが、二日目からは段々とペースが掴めて来た。九州ツアーは20,21の大分公演、23,24の小倉公演と続き、3月25日に10日ぶりに帰京した。
その後もコンサートは北陸〜四国〜中国〜東京〜北関東〜東北〜近畿〜山陰と、途切れること無く続いて行った。まさにツアーという言葉がぴったりだった。

コンサートツアーと言えば、ほぼ毎日のように次の公演地への移動と違うホテルでの宿泊が繰り返される。ぼくは移動の乗り物は飛行機以外はそんなに苦手ではなかったが、連日寝床が変わるのがあまり得意ではなかった。
毎日違うホテルで固さの異なるベットと枕に順応するのが苦手だった。時には一晩中眠れないこともあった。
元々枕が変わると眠れないほうなので、自分の枕を持って行くことを真剣に考えたこともあったが、さすがにそれはしなかった。

ツアーでの楽しみの一つは訪れる街の美味しいものを食べることや、街を散策することだった。
でもぼくは豪華な食事よりも、その土地の庶民的なものを食べるほうが好きだった。
コンサートが終わった後に毎回打ち上げが行われるというわけではなく、時には三々五々自由に食事に出ることも度々あった。

旅も長くなると、一緒に行動する面子というのが決まって来て、ぼくはベースの江澤くんと一緒にいることが多かった。
ぼくも江澤くんもあまりお酒が得意ではなく、旧知の間柄だったこともあってか良く行動を共にした。
お酒が好きな古村くんは、同じく酒好きの梁くんや高橋くんと一緒に行動することが多かった。

時には、コンサートを観に来ていたお客さんと食事先の店でばったり遭遇し、意気投合して一緒に飲み食いしたりしたこともあった。

博多では夜になるとたくさんの屋台が道端に出る。ぼくは博多の屋台で食べる天ぷらやおでんが大好きだった。

名古屋では大須の焼き鳥屋「やば町」によく行った。ここのちょっと偏屈なおやじさんの蘊蓄を聞きながら食べる焼き鳥の味は格別だった。

金沢では「宇宙軒食堂」という、ちょっと怪しい感じの定食屋に毎回行った。今では有名になってしまったようだが、ぼく達が行っていた頃は地元の人しか食べに来ないようなひっそりとした食堂だった。

広島は「むさし」のうどんとおにぎり、「みっちゃん」の広島焼き、駅構内の立ち食いうどん屋、東京にもあるベーカリー「アンデルセン」の総本山?がお気に入りだった。あと「中ちゃん」も。

盛岡ではいつも決まってメンバースタッフ総出で椀子そばを食べに行った。何度か「浜田省吾杯争奪わんこそば選手権」なる大会も行われた。優勝するのはいつも決まって百数十杯を平らげるスタッフの誰かだった。
浜田さんやバンドのメンバー達は、とてもスタッフの食べる勢いにはついて行けなかった。

新潟は「越後屋」というおにぎり屋のおにぎりがお気に入りだった。
福井の会館の裏手にある肉屋のコロッケもバンドメンバーみんなのお気に入りだった。
揚げたてのホクホクのコロッケを買って来て、楽屋でパンに挟んでソースをかけてよく食べた。
長野で食べるそばの味もまた格別だった。

残念ながら現在は閉店してしまったようだが、長崎の「オビナタ」というイタリアンレストランも大のお気に入りの店だった。
ここはクラシカルな内装の店内と、美味しい料理、そしてホスピタリティが抜群の店だった。

北海道は美味いものの宝庫だった。
札幌では毎回何を食べようか悩んだ。札幌に行くと必ずと言っていいほど食べるラーメンは、バンドメンバーそれぞれお気に入りの店があってみんな違う店に行っていた。ぼくは「味の三平」が好きで毎回必ず行った。
函館は「五島軒」のカレー、帯広は「炉ばたのあかり」、旭川は「蜂屋」のラーメン、釧路は炉ばた焼き発祥の地と言われている、その名もずばり「炉ばた」等、本当に美味しい店だらけだった。

岡山の天神そばや四国は高松のうどんも絶品だった。
宇高連絡船の船内で、海風に吹かれながら食べるうどんもまた最高だった。

沖縄ではステーキと洋食とハンバーガーとアイスクリームが楽しみだった。
ステーキは大概「ジャッキー」か「サムズ」、洋食はイタリアンのようなファミレスのような「ピザハウス」という店、沖縄のスーパー「ジミー」に併設されているアップルパイ、ハンバーガーは「A&W」、アイスクリームは「ブルーシール」がお気に入りだった。

ぼくは一度普天間の「ピザハウス」で浜田さんに間違われたことあった。
その日、宜野湾コンベンションセンターでのコンサートを終え、普天間の「ピザハウス」で食事を楽しんだ後、会計の列に並んでいたら、コンサートを観に来たらしいお客さんからいきなり「浜田省吾さんですよね?」と声をかけられた。
ぼくは即座に否定したのだが、相手は浜田省吾に間違いないと言って譲らない。おそらくぼくがサングラスをかけていたこともあって間違えられたのではないかと思うが、そもそもぼくと浜田さんはそんなに似てないと思うのだが。

何度否定しても相手は全然納得していない様子なので、だんだん面倒くさくなって来て、最後は「はい、ぼくは浜田さんではありませんが、あなたがそんなに言うのなら、もしかしたら浜田省吾なのかもしれません。」ということで納得していただいた(笑)

「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」は3月17日の宮崎公演から7月16日の仙台公演までが前半戦で、計48本のコンサートが組まれていた。
ぼくはこの頃からだんだん視力が落ちて来ているのを感じていた。
コンサートの最中のステージから客席は暗くて殆ど見えないのだが、会場の出入り口の扉の上に点灯している「非常口」という緑色のライトはステージからよく見えた。
コンサートの本数が進むにつれ、その「非常口」と書かれた誘導灯のパネルが段々とぼやけて見えるようになって来た。
前半最後の仙台市体育館での公演の頃には「非常口」の文字が殆どぼやけて見えなくなってしまった。

ぼくは仙台から戻るとすぐに眼科に行って検眼をしたところ、それまで両目とも1.2〜1.5ぐらいあった視力が0.2ぐらいに落ちていた。これにはかなりショックを受けた。
詳しい原因はよく分からないが、31才にして急に近視になってしまった。
おそらく長年ステージでものすごい光量のライトを浴びていたことも、原因の一つではないかと勝手に推測したが、本当のところはよく分からない。

4月2日の磐田市と3日の豊橋での公演を終えたぼく達は、次の公演地である四日市への移動日に、夏に行われる野外イベント会場の下見のために浜松へ向かった。そこは渚園と呼ばれる広大な敷地だった。8月にここで三回目となる浜田省吾のビッグイベント「A PLACE IN THE SUN」が行われることが決まっていた。
まだ何もないだだっ広い敷地に数万もの人が集まることになるのが、この時には中々イメージ出来なかった。

1988年8月20日、浜名湖畔の渚園で観客動員数が5万人とも6万人とも言われた、浜田省吾の野外イベント「A PLACE IN THE SUN」が開催された。
その話はまた次回。

 「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」前半戦 日程
1. 03月17日(木) 宮崎市民会館
2. 03月18日(金) 宮崎市民会館
3. 03月20日(日) 大分文化会館
4. 03月21日(月) 大分文化会館
5. 03月23日(水) 九州厚生年金会館
6. 03月24日(木) 九州厚生年金会館
7. 04月02日(土) 岩手市民文化会館
8. 04月03日(日) 豊橋勤労福祉会館
9. 04月05日(火) 四日市市文化会館
10. 04月06日(水) 静岡市民文化会館11. 04月11日(月) 長岡市立劇場
12. 04月12日(火) 上越市文化会館
13. 04月14日(木) 石川厚生年金会館
14. 04月16日(土) 富山市公会堂
15. 04月17日(日) 福井フェニックスプラザ
16. 04月28日(木) 高知県民文化ホール
17. 04月29日(金) 愛媛県県民文化会館
18. 05月01日(日) 山口市民会館
19. 05月02日(月) 下関市民会館
20. 05月04日(水) 岡山市民会館
21. 05月12日(木) 代々木第一体育館
22. 05月13日(金) 代々木第一体育館
23. 05月15日(日) 代々木第一体育館
24. 05月16日(月) 代々木第一体育館
25. 05月24日(水) 山梨県民文化ホール
26. 05月25日(木) 松本社会文化会館
27. 05月27日(土) 長野県民文化会館
28. 05月28日(日) 長野県民文化会館
29. 05月30日(火) 群馬県民会館
30. 05月31日(水) 宇都宮市文化会館
31. 06月04日(土) 秋田県民会館
32. 06月05日(日) 大館市民文化会館
33. 06月07日(火) 青森市文化会館
34. 06月08日(水) 八戸市公会堂
35. 06月10日(金) 岩手県民会館
36. 06月15日(水) 足利市民会館
37. 06月21日(火) 神戸文化ホール
38. 06月22日(水) 神戸文化ホール
39. 06月24日(金) 和歌山県民文化会館
40. 06月26日(日) 鳥取市民会館
41. 06月28日(火) 島根県民会館
42. 06月29日(水) 島根県民会館
43. 07月05日(火) 新潟県民会館
44. 07月06日(水) 新潟県民会館
45. 07月12日(火) 山形県民会館
46. 07月13日(水) 山形県民会館
47. 07月15日(金) 仙台市体育館
48. 07月16日(土) 仙台市体育館

1988年9月、沖縄のホテルで江澤くんと。

2017/01/14

浜田省吾 #32 「FATHER'S SON」

今回は1988年3月16日に発売された浜田省吾さんのアルバム「FATHER'S SON」の話です。

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1987年10月28日、渋谷区初台のレオミュージックスタジオで、浜田省吾のニューアルバムのプリ・プロダクションが始まった。
プリ・プロダクションとはレコーディングする楽曲のアレンジを考えたり、サウンドの方向性を決めたりする作業のことである。

今回のレコーディングからバンドに新たなメンバーとしてキーボードの梁邦彦くんが加わって、レコーディングでもぼくと梁くんのツイン・キーボード体制で行くことになった。

プリプロの何日か前に、ぼく達は青山のロード&スカイに集合した。
楽曲のアレンジ担当者を決めるためのミーティングだった。

事務所に行くと、浜田さんがニューアルバムに収録する予定の曲の簡単なデモテープを作って来ていた。
バンドメンバーが全員集合すると、浜田さんがテーブルの上に10本のカセットテープを置いた。10本のカセットにはニューアルバムに収録予定の曲の簡単なデモが一曲ずつ録音されていた。

「アルバムに収録する予定のデモテープを作って来たので、みんなでテープを聴いてアレンジしたい曲を選んで欲しい。」そう言って浜田さんは、傍らのカセットデッキにデモテープを装填して一曲ずつかけていった。

約一時間程かけて全部のデモテープを聴き終えた。
各自アレンジしたい曲を選んで欲しいとのことだったが、大体の割り振りはすでに浜田さんの頭にあるようで、「この曲は梁くん、この曲は町支。」と次々と浜田さんからリクエストがあった。浜田さんからの要望で約半分の曲の割り振りが決まった。ぼくが浜田さんからリクエストを受けた曲はバラードナンバーだった。

残りの半分の曲はメンバーで話し合って、誰がアレンジを担当するか決めて欲しいとのことだった。
この後浜田さんはアメリカに旅立つので、帰国するまでにすべての分担とアレンジを完成させておいてくれと言って去って行った。

ぼく達バンドのメンバーは、残りの半分のデモテープを眺めながら誰がアレンジを担当するか話し合った。
今回のレコーディングは、新メンバーの梁くんをメインにやろうということになったので、必然的に梁くんの担当する曲が多くなった。

しばらくしておおよその曲の分担が決まったが、テーブルの上に一本のカセットテープだけが残った。
「この最後の一曲、どうする?誰がアレンジやる?」メンバーの誰かが言った。
「う〜ん、この曲だけどうも見えないんだよね。」また誰かが言った。最後に残った一曲はメンバー全員がアレンジを躊躇するような、ちょっとサウンドが見えにくい曲だった。
結局その一曲だけは誰も挙手をするものがいなく、浜田さんが帰国するまで放置されることとなった。

やがて浜田さんが帰国して、再び事務所でミーティングが開かれた。
「どう?残りの曲の分担決まった?」浜田さんが聞いて来た。
「それが一曲だけ誰もやりたがらない曲があって、まだ手つかずなんだ。」メンバーを代表して町支さんが言った。
「え?その一曲ってどれ?」浜田さんが聞いた。「そこに置いてあるカセット。」そう町支さんは言った。
浜田さんがそのカセットを手にとってデッキにセットした。やがてスピーカーからダークなトーンの曲が流れて来た。

「この曲は別に難しく考えなくても大丈夫。ダンスビートを刻むシンセベースと、タイトな生のドラムのグルーブが融合したリズムに、ハードなギターが絡んでくるようなアレンジにして欲しいんだ。そうだなぁ、板倉やってくれる?」
「えっ?オレですか!?」ぼくはびっくりして尋ねた。
「今回板倉のアレンジはまだ一曲だけだし、この感じは板倉が合っていると思う。」さらりと浜田さんは言った。
「分かりました、さっきの説明を聞いて大体の感じは掴めたのでちょっと考えてみますね。」

これでぼくがアレンジを担当する曲はバラードナンバーと、みんなが手をつけるのを躊躇した問題の曲の二曲となった。しかしその曲は結果的にアルバムの核となる重要なポジションを占める一曲となった。

1987年11月1,2,4日の三日間と、間に石渡長門くんのリハーサルを挟んで、11日と14日の計五日間、目黒のヤマハスタジオと初台のレオミュージックスタジオ、新宿のミュージックシティスタジオで、ニューアルバムのプリ・プロダクションを行った後、11月16日から信濃町のソニースタジオで、ぼくの担当する曲のレコーディングが始まった。

ぼくがアレンジを担当した曲は後に「NEW YEARS EVE」「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」とタイトルが付けられる2曲。
今回のアルバムのアレンジは町支さんが3曲、古村くんが1曲、ぼくが2曲、梁くんが4曲を担当することになっていた。

キーボードプレイヤーが二人になったことで、どちらがどの楽器を担当するか梁くんと話し合った。
基本的には自分がアレンジした曲は自分が弾くということになったが、曲によってはぼくのアレンジした曲で梁くんがピアノを弾いたり、梁くんのアレンジでぼくがピアノを弾いたりした曲もあった。
町支さんと古村くんのアレンジした曲でも、レコーディングをしながら楽器の分担を決めて行った。

ぼくは今回2曲だけのアレンジだったが、サウンドを考えるのに結構時間がかかった。特に「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」は、浜田さんからの要望と自分のイメージするサウンドが合致するまで、何度も試行錯誤を繰り返した。
まずは打ち込みによるシンセベースのラインを考えることから始めた。8ビートでフレーズをシーケンスするようなクールなベースのラインを作った。そしてそれに呼応するようなタイトなリズムのドラムのパターンを考えた。
リズムの上に乗っかる楽器は、イントロとアウトロのテーマを吹くサックスとギターの掛け合いのフレーズや、間奏のブレイク部分やサビのバックで繰り返されるストリングスのライン等、細部に渡ってフレーズを譜面に書き込んだ。

レコーディングは断続的に1988年の1月の終わりまで続いた。ちょうどこの頃ぼくは幼馴染みでもある、石渡長門くんという新人のシンガーのレコーディングとライブも受け持っていたので、それこそ目の廻るような忙しさだった。渋谷のTake Off7とエッグマンで行われた石渡くんのライブは、江澤くんと古村くんにも手伝って貰った。

アルバム「FATHER'S SON」に参加した主なレコーディングメンバーは以下の通り。
ドラムス:高橋伸之
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
キーボード:梁邦彦 板倉雅一
サックス:古村敏比古
トラッペット;小林正弘
トロンボーン:清岡太郎
パーカッション:ペッカー

他にも曲によってはゲストのミュージシャンに参加してもらった。
「NEW YEARS EVE」では、宮野弘紀さんにガットギターを弾いてもらった。この曲のアレンジは音数を少なくして、淡々とした中にも情感が溢れるようなイメージで作り込んだ。宮野さんの奏でるガットギターは、浜田さんのボーカルに寄り添うような素晴らしい演奏だった。

「FATHER'S SON」のレコーディングは、それまでのアルバムのレコーディングよりも更にアレンジを担当した者が中心になって行われたため、J・BOYの時よりもシステマチックに行われた。ぼくもすべての現場に居合わせた訳では無いので、自分のアレンジした曲以外の曲のリズム録りが終わって、しばらくしてスタジオに行くと、たくさんの楽器がダビングされていて驚いたことも多々あった。

1月末にアルバムのレコーディングが終わるとすぐにぼくは、石渡長門くんのレコーディングのため、箱根のレコーディングスタジオに向かった。約一週間のレコーディングを終え帰京した2月13日、信濃町ソニースタジオで、浜田省吾のニューアルバム完成を祝うささやかパーティが催された。

その二日後の2月15日から約一ヶ月の間「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」のためのリハーサルが始まった。
ぼくは浜田さんのツアーのリハーサルの間に、佐野元春さんのレコーディングにも参加した。

佐野さんがDJ を務めていたFM番組の中で企画・制作されたコンピレーション・アルバムに、石渡長門くんが参加することになり、ぼくも久しぶりに佐野さんのレコーディングに呼ばれることとなった。

ぼくが参加したのは石渡長門くんの「Rumblin'Around」と藤森かつおさんの「漂流者へ」の2曲。
佐野さんとのレコーディングはとてもエキサイティングで面白かった。佐野さんのレコーディングは、浜田さんのレコーディングとはやり方が全く違って、まず譜面というものが存在しなかった。

佐野さんが傍らに置いたリズムマシンのビートに合わせてギターを弾きながら、曲のコードを言って行く。そしてバンドのメンバー各自それをメモしながら進めて行くというやりかただった。

ぼくは普段やったことのないそのレコーディングの進め方に面食らって、最初はみんなについて行くのが精一杯だったが、他のバンドのメンバー(佐野さんのバンド、ザ・ハーランドのメンバー達)は、涼しい顔をして佐野さんの指示通りに演奏していた。でも次第にぼくもそのやり方に慣れて来て、最後の方はだんだんと楽しくなって来た。

浜田さんとは対照的なレコーディングのやり方だったが、後日完成した曲を聴かせてもらったら、非常にカッコいい仕上がりになっていて驚いた。
色々なサウンドプロデュースの方法があることをぼくはまた一つ学んだ。

浜田省吾のツアーのリハーサルは、3月9,10日の二日間、市川市文化会館での公開リハーサルを挟み、3月13日まで続いた。
そして1988年3月17日から1989年2月7日までの、約100本に渡るコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」の幕は切って落とされた。

FATHER'S SONのレコーディングが行われた信濃町ソニースタジオの壁に書かれた
マイケル・ジャクソン直筆のサインの前で。

2016/12/05

1987年のセッションワーク

今回は1987年のセッションワークについてお話したいと思います。
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1979年にぼくが浜田省吾のバックバンドに加入してから、必ず毎年全国を廻るコンサートツアーが行われていたが、1987年は初めて浜田省吾のコンサートツアーが無い年となった。
ぼくは5月にの末にアルバム「Club Snowbound」のレコーディングを終えた後、束の間の短い休暇をとってから精力的にセッションワークに勤しんだ。

87年6月は杉真理さんとEPOさんのコンサートに参加した。
杉さんとはそれまでも面識はあったが、一緒に演奏するのはこのときが初めてだった。
杉さんのバンド「ドリーマーズ」のキーボード奏者である島田陽一さんの代わりに、ぼくがトラ(代役)として加わる形でのコンサートだった。
杉さんとの最初のリハーサルはちょっと緊張したが、杉さんの持前の明るさに随分と助けていただいた。杉さんの音楽は前から大好きだったので、コンサートに参加することが出来てとても嬉しかった。
EPOさんとは初対面。何曲かバックで演奏させてもらったが、あまりご本人と話す機会はなかった。ぼくはEPOさんの曲も大好きだったので、バックで演奏することはやはりとても嬉しいことだった。

7月は沖縄出身の14歳の新人女性シンガー「GWINKO(吟子)」のバンドに参加した。
GWINKOは沖縄アクターズスクール出身のシンガーで、R&Bやファンクナンバーを14歳とは思えない歌唱力で軽々と歌っているのにはとても驚いた。
The Fuseのベースの江澤くんと一緒にGWINKOのバックバンドで、TBSテレビの「ライブ-G」や日本テレビの「11PM」等、何本かのテレビ番組に出演した。

8月はキティレコードの新人バンドのプロデュースを担当。箱根のスタジオで合宿レコーディングを行った。

9月と10月は中村雅俊さんのレコーディングと、本田美奈子さんの日本武道館と大阪城ホールでのイベント「MOTTO MOTTO DISPA 1987」に参加した。
本田美奈子さんのコンサートはとても大掛かりなもので、リハーサルだけでも二週間ぐらい行った。コンサートのゲストには少女隊とマイケル・ジャクソンの姉であるラトーヤ・ジャクソンも登場した。
そしてこの時のバンドはとても強力なメンバーが集まった。
メンバーは以下の通り。

Drums:Tony St. James
Bass:Bobby Watson
Guitar:大村憲司、堀越信泰
keyboards:Carl Evans, Jr.、板倉雅一
Percussion:金津ヒロシ
Background vocals:桂木佐和、清水美恵、高橋洋子

Trumpet:兼崎順一、寺嶋昌夫
Saxophone:包国充、Paul Suzuki
Trombone:村田陽一

ドラムのTony St. Jamesはアース、ウインド&ファイアーのボーカリストであるフィリップ・ベイリーのバンドのドラマー。
ベースのBobby Watsonはルーファス&チャカ・カーンのベーシスト。
キーボードのCarl Evans, Jr.は、ライオネル・リッチーのバンドのキーボーディスト。
三人ともアメリカ人の黒人ミュージシャンだった。

ギターの大村憲司さんは日本を代表する偉大なギタリストで、今回のサウンドプロデューサーでもあった。
コーラスの高橋洋子さんは松任谷由実さんのバックコーラス等を担当していた方で、後にエヴァンゲリオンの主題歌を歌って大ブレイクする。

ホーンセクションの兼崎順一さんと包国充さんとは、何度か浜田省吾さんのライブでもご一緒している旧知の間柄。村田陽一さんは言わずと知れた超有名なトロンボーン奏者。

そんなそうそうたるメンバーと一緒にやることになって、ぼくはかなり緊張していた。
リハーサルの初日、代々木のスタジオに行くと大村憲司さんがバンドのメンバーを一人一人紹介してくれた。
アメリカ人ミュージシャン達は当然日本語が話せないので、大村さんが流暢な英語で通訳をしてくれた。さすがYMOのツアーとかで世界を廻っている人は違うなぁ、とぼくは心の中で感心していた。

大村憲司さんはYMOのサポートギタリストとしても有名だったが、他にも数々のセッションを行っていた。
ぼくは1975年か76年に、東京の下町の三ノ輪という町にあったライブハウス「モンド」で、大村憲司さんのバンド「カミーノ」のライブを観たことがあった。
カミーノはギターが大村さんと是方博邦さん、ベースが小原礼さん、ドラムが村上ポンタ秀一さんと井上茂さんという超強力なラインナップのバンドで、当時はクロスオーバーと言うジャンルで呼ばれていたファンク系バンドだった。

ぼくはどんなサウンドやリクエストにも対応出来るように、リハーサルスタジオに山のような機材を持ち込んだ。
リハーサルが始まってもなかなか本田美奈子さんは現れなかった。ぼく達バンドは本人不在のままリハーサルを進めて行った。
アメリカ人のリズム隊コンビは強力だった。黒人ミュージシャンが生み出すグルーブは素晴らしく、絶対に日本人には真似の出来ない、しなやかなでうねるようなリズムを次々と繰り出して来た。
もう一人のキーボーディストのCarl Evans, Jr.のプレイとグルーブも強烈だった。ぼくは彼の演奏にすごくびっくりした。

後日、本田美奈子さんがゲストの少女隊の三人とラトーヤ・ジャクソンを伴ってリハーサルスタジオに現れた。
大村憲司さんがみんなにバンドメンバーを順番に紹介して行った。
勿論ぼくも紹介されて握手を交わした。間近で見る本田美奈子さんと少女隊の三人はとてもキュートだった。ラトーヤ・ジャクソンはマイケル・ジャクソンそっくりの顔立ちをしていた。ぼくはラトーヤと握手をした時ちょっぴり緊張した。

結局本田美奈子さんがリハーサルに参加したのはその一日だけだった。
やがて本番の日がやって来た。1987年10月2日、大阪城ホール当日の本番前にゲネプロが行われた。ゲネプロに現れた本田美奈子さんは、一回しかリハーサルに参加していないにもかかわらず、完璧に本番さながらのパフォーマンスを披露した。
勿論本番でも素晴らしい歌唱とダンスで観客を魅了した。

10月7日には日本武道館での公演が行われた。この日はビデオの収録とライブアルバムのレコーディングも行われることになっていた。
本田美奈子さんは武道館でも輝いていた。彼女はただのアイドル歌手ではなかった。
武道館でのコンサートも大成功に終わった。ただリハーサルから本番を通じて殆ど彼女と話す機会が無かったことが少し残念だった。

後日「DISPA!」と題された二枚組のライブアルバムと、コンサートの模様を収録したビデオが発売された。
ビデオにはバンドのメンバーは殆ど映っていなかったが、本田美奈子さんは勿論のこと、バンドの演奏も素晴らしかった。

ぼくは約半年間のセッションワークを終え、また浜田省吾のバンドに戻った。
10月の下旬から浜田省吾の新しいアルバムのためのプリ・プロダクションが始まった。
久しぶりに浜田さんとバンドのメンバーに会った時、ぼくは自分の家に帰って来たような安堵感に包まれているのを感じていた。

日本武道館公演の模様を収録したDVD。