2017/10/04

1993年の出来事

今回は1993年のことを。

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1993年から94年にかけては、ツアーとレコーディングの日々が続いた。
ぼくがツアーサポートで参加したアーティストはinfix、久宝留理子さん、町支寛二さん。
山本英美さん。

93年の前半はinfixのレコーディングで多忙だった。
ぼくは前作に引き続き、彼等の三枚目のアルバムのプロデュースも担当した。レコーディングは前作同様二子玉川のスタジオ・サウンドダリで行った。エンジニアも前作と同じ森元浩二くん。
参加ミュージシャンはinfixの四人+キーボードでぼく+サックスの倉富義隆くん他。
サウンド的には前作からの流れで、アメリカンロックっぽい部分をさらに押し進めた作品になった。

infixの楽器にも新たな顔ぶれが加わって、ベースの野間口くんはヴィンテージのフェンダージャズベースを、ギターの晃くんもヘッドアンプやエフェクター群を一新してレコーディングに臨んだ。
ぼくもこの時期、シンセサイザーやサンプリングキーボード等、機材を大量に導入してサウンド作りに勤しんだ。

今回のアルバムでは新たな試みにもトライした。メンバーによるアカペラの曲や歌のないインストゥルメンタルの曲など、今までとは違う新たなことにチャレンジした。
彼等はメンバー全員がボーカルをとれたので、コーラスはお手のものだった。そこで今回は今まで彼等がやったことのない、ドゥーワップ調のコーラスにもトライしてもらった。

インストゥルメンタルの曲は、ぼくとギターの佐藤晃くんの二人で書いた。ピアノとアコースティックギターだけの曲で、「Innocent Age」と名付けられた。結果この曲はアルバムタイトルにもなった。
アルバムタイトルはぼくが考えて、彼等やスタッフと協議した結果「Innocent age」に決まった。

アルバムに先駆けて4月にシングル「WINNERS FOREVER〜勝利者よ〜」がリリースされた。これはテレビアニメ「機動戦士Vガンダム」のエンディング・テーマに採用されて、スマッシュヒットを記録した。
この曲はシングル・バージョンとアルバム・バージョンではアレンジが異なる。シングルのほうはホーンセクションが入って、より派手な仕上がりになった。

1993年の6月にinfixの三枚目のアルバム「Innocent Age」はリリースされた。

infixのレコーディングが終了すると、すぐに久宝留理子さんのツアーが始まった。
93年になって久宝留理子さんのバンドは何人かメンバーが代わった。
ギターが高村周作くんから富塚和彦くんと長田進くんに、サックスが古村敏比古くんから
スマイリー松本くんにスイッチした。

長田くんとは佐野元春さんのレコーディング以来の再会だった。あの時はレコーディングスタジオでの一度限りのセッションだったが、今回は一緒にライブをやることが出来るので、音を出すのがとても楽しみだった。

久宝留理子さんの93年ツアーは以下の通り。
5月22日 銀座 SOMIDO ホール

5月23日 ヒューマンアカデミー大阪北校

5月30日 新宿 日清パワーステーション

6月8日 大阪 バナナホール

6月10日 新宿 日清パワーステーション

8月7日 神鍋高原特設ステージ

8月8日 名古屋港ガーデン埠頭

9月23日 新宿 日清パワーステーション

8月の神鍋高原特設ステージでのライブは、前日の夕方に東京からバスをチャーターして鈴木雅之さん御一行と一緒に移動した。バスは深夜大阪に到着した。
ぼく達は一旦大阪で宿泊して、次の日の朝早く神鍋高原入りした。

神鍋高原は兵庫県の豊岡市にある広大なリゾート地で、コンサートは野外の広場のようなところに特設ステージを組んで行われた。真夏だったので高原と言ってもとにかく暑かった。
ぼくは自分の楽器や機材が、暑さでどうにかなってしまわないかそればかり気にしていた。

ぼくは9月23日の日清パワーステーションでのライブを最後に久宝さんのバンドを離れた。ぼくにとって久宝さんとのラストライブはとても素晴らしいものになった。

久宝さんのツアーと併行して、7月から始まった町支寛二さんのツアーは前年と同じメンバーで行われた。
スケジュールは以下の通り。

町支寛二「ebb tideツアー」
7月9日  愛知勤労会館

7月15日 大阪厚生年金

7月20日 渋谷公会堂

7月22日 中野サンプラザ

町支さんのセカンドソロアルバム「ebb tide」のレコ発ツアーだった。

他にも山本英美くんのライブサポートや、「夏の日の1993」が大ヒットしていたClassのテレビ出演等のセッションワークもたくさん行った。

93年の後半は横浜銀蝿のボーカル、翔さんのソロアルバムのアレンジを担当した。
レコーディングの打ち合わせのため、ぼくは渋谷からほど近い三宿のとあるバーで初めて翔さんとお会いした。
ぼくの目の前に現れた翔さんはイメージの通り強面で、ぼくはお会いする前からかなり緊張というかビビっていた(笑)
でも音楽の話をしていくうちに段々と緊張もほぐれて来て、翔さんといい感じでレコーディングに入れそうな気がした。

今回、ぼくはアレンジャーとして全体を俯瞰していたかったので、あえて演奏には参加せずスタジオのコントロールルームの中で指揮を執る、プロデューサー的スタンスでレコーディングに臨んだ。

翔さんのレコーディングに参加してくれたミュージシャンは以下の通り。
ドラムス:大久保敦夫
ベース:美久月千春
ギター:高村周作
キーボード:友成好弘

ぼくはミュージシャンの人選も任されていたので、信頼する凄腕のメンバーに参加してもらった。

ドラムの大久保くんは直前の久宝さんのツアーでも一緒だった関係で、久宝さんのツアーが終わるとすぐに直でお願いした。
ベースのミックとはそれまでも何度かスタジオで一緒にレコーディングをしたことがあって、今回のレコーディングでもお願いをした。

ギターの周ちゃんとも千春さんと久宝さんのツアーで一緒だった。今回のレコーディングでも、素晴らしいプレイを披露してくれるに違いなかった。
キーボードの友成くんとは、浜田省吾さんの84年の横浜スタジアムでのコンサートで一緒にプレイをした仲だったので、今回久しぶりに声をかけて参加してもらった。

レコーディングはそんな旧知のミュージシャン達と、主に新宿のスタジオ・テイクワンで行われた。
ぼくは自分のアレンジした譜面を写譜屋さんと呼ばれる、譜面を清書してくれる方から受け取ってスタジオ入りした。
初めての方とのレコーディングの初日はやはり緊張するもので、翔さんも少しナーバスになっているのが伺えた。
スタジオには翔さんと、翔さんのお兄さんである横浜銀蝿のドラム担当の嵐さんも同席していた。

レコーディングのリズム録りは、全員名うてのミュージシャン達なのでスムーズに終わった。後日ストリングスやその他の楽器のダビングを行って、93年11月に先行シングル「色つきの恋がセピアに変わる」が、そして94年の1月に翔さんのソロアルバム「KINGDOM」がリリースされた。

ライブやレコーディングで1993年も慌ただしく過ぎて行った。
ぼくはそれまでフリーの立場で活動してきたのだが、ミュージシャンとしての活動に専念したかったのと、自分でマネジメントを行うことに限界を感じてもいたので、この年の後半からマネージメントオフィスに所属することになった。

また来年から新たな一歩を踏み出すべく、ぼくは気持ちを引き締めて直していた。

1993年8月7日神鍋高原特設ステージ。足元のペダルの数が凄い(笑)



2017/08/11

1992年 下半期の出来事

今回は1992年下半期の出来事です。 

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そろそろ本格的な夏も始まろうかという暑い日に、ぼくは浜田省吾さんの事務所であるロード&スカイのIさんと、世田谷のイタリアンレストランでお会いした。町支寛二さんのツアーのオファーを兼ねた打ち合わせだった。
ちょうどこの時ぼくは、他にも同時進行していた案件があったので、町支さんのツアーに参加するためにはスケジュールの調整をする必要があった。

Iさんから町支さんのツアーやリハーサルの日程を確認すると、どうにか参加出来そうな感じがしてきた。ぼくは少し時間をもらって更に各所とスケジュールの調整をした結果、正式に町支さんのツアーに参加することが決定した。

その頃infixのセカンドアルバムのレコーディングも大詰めに来ていた。
infixのメンバーはそれぞれ個性的な連中で、ボーカルの長友くんはバンドのフロントマンらしく快活でよく喋る男だった。ギターの佐藤くんは一見淡々としているが、秘めたものを持っているバンドのまとめ役だった。
ベースの野間口くんは一番年下なせいか控えめな印象を受けたが、音楽的に長けたものを持った好青年だった。ドラムの大神くんはみんなのいじられ役で、なにかとちょっかいを出されていたが、プレイヤーとしては頑固なところのある練習熱心なドラマーだった。

ぼくは連日二子玉川のスタジオサウンド・ダリに通い詰めながらも、同時に町支さんの譜面や音源の資料の確認と、久宝留理子さんのアレンジもしなければならなかったので、圧倒的に時間が足りなかった。
そんな真夏の最中、ようやくinfixのセカンドアルバムが完成した。「Just A Hero」と名付けられたそのアルバムは、難産ではあったが充実した内容の作品になった。

infixのレコーディングが終わってから、92年の後半はツアー漬けの日々だった。
久宝留理子さんのツアー、町支寛二さんのツアーに加えて、ぼくはinfixのツアーにもキーボード奏者として帯同した。
更にその日程の隙間を縫うように、山本英美くんのコンサートも何本かあった。

ぼくは夏の間、久宝留理子さんのコンサートで全国を飛び回っていた。
久宝留理子さんのバンドメンバーは、ドラムス:大久保敦夫ベース:江澤宏明ギター:高村周作キーボード:板倉雅一サックス:古村敏比古コンピュータプログラミング:池田公洋。
久宝留理子さんの夏のツアーは以下の通り。

久宝留理子「Go! Go! everyday」ツアー
7月20日 仙台エルパークスタジオホール
7月23日 大阪 ミューズホール
7月25日 福岡 ビブレホール
7月26日 熊本 イエロースタジオ
7月28日 広島 ウイズワンダーランド
8月1日 名古屋 ハートランド
8月5日 札幌 メッセホール
8月7日 横浜 ビブレホール

久宝さんのコンサートのスケジュールが一段落した頃、町支さんのツアーのリハーサルが始まった。

一緒にツアーを回る町支寛二バンドのメンバーは、ドラムス:高橋伸之、ベース:関雅夫、ギター:水谷公生、キーボード:板倉雅一、キーボード:福田裕彦、サックス:古村敏比古
この6人に町支寛二を加えた計7人。新旧入り交じった浜田省吾バンドのメンバーが集まった。

ぼくはベースの関さんと一緒にやるのは初めてだったが、昔から面識はあったので不安は無かった。キーボードの福ちゃんは、浜田さんのレコーディングで一緒だったので以前からよく知っていた。他は長年一緒にツアーを回ったメンバー達だった。サックスの古村くんとは久宝さんのツアーでも一緒だったので、町支さんのバンドでも再び一緒にやることとなって嬉しかった。

町支さんのツアーの曲目は、初のソロアルバムからの曲を中心に構成されていたが、他にも何曲かの洋楽のカバーもあった。
約二週間程のリハーサル期間を経て、いよいよ町支さんのソロツアーが始まった。
「僕を呼ぶ声」というタイトルの付いたツアーは、10月22日名古屋 愛知勤労会館を皮切りに、11月11日の東京渋谷公会堂までの計7カ所での公演だった。
日程は以下の通り。

町支寛二「僕を呼ぶ声」ツアー
10月22日 名古屋 愛知勤労会館
10月24日 宮城県民会館
10月29日 札幌サンプラザホール
11月2日 広島アステールプラザ
11月3日 大阪厚生年金会館
11月5日 福岡電気ホール
11月11日 渋谷公会堂

初日の愛知勤労会館のコンサートに浜田省吾さんが来ていた。ぼくは楽屋で約一年半ぶりに浜田さんと再会をした。

昨年91年の2月12日、ぼくは千葉で行われた浜田さんのコンサートを観た。The Fuseを脱退してから初めて観た浜田さんのコンサートだった。
自分がステージにいない浜田省吾のコンサート観るのは、79年7月1日の新宿ロフト以来だった。

ぼくは客席のほぼ真ん中の席で観戦した。浜田さんのコンサートは素晴らしかった。しかしぼくはコンサートを観戦しながら、何とも言えない感情がこみ上げて来た。当たり前のことだが、自分がいた場所に違う人がいて演奏している。自分がいない浜田さんのステージを客観的に観られるようになるまでには、ぼくにまだ時間が必要だった。

町支さんのコンサートは中盤にアコースティックコーナーが設けられていて、たしか二曲程洋楽のカバーをやった。
一曲はビートルズの「I've Just Seen A Face(邦題:夢の人)」と、もう一曲はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の「Find The Cost Of Freedom(邦題:自由の値)」だった。 
この二曲の時(ひょっとしたら一曲だけだったかもしれない)、ぼくは自分のキーボードの位置からステージ中央に出て行き、町支さんを真ん中にぼくと水谷さんの三人が高さのあるスツールに座って、横一列に並ぶ編成で演奏した。

演奏というかこの二曲に関してはぼくはボーカルだけだった。町支さんと水谷さんがアコースティックギターを弾き、ぼくは楽器を持たず手ぶらで歌った。長いミュージシャン活動の中で楽器を持たないで歌ったのは、この時と後は数える程しか無かった。

町支さん、水谷さん、ぼくの三人でのハーモニーは、自分でいうのも何だがなかなか格好良かった。
ぼくは歌いながら「CSN&YというよりもまるでGAROみたいだな。」と思っていた。
特に「Find The Cost Of Freedom」は、コーラスのみのほぼアカペラで、コーラスワークはとても難しかった。
今回の町支さんのコンサートでは、ぼくは浜田さんのコンサートの時よりもコーラスの比重が大きかった。

コンサートの後半はフルバンドでの演奏に戻り、アップテンポの曲が中心になって畳み掛けるような構成になっていた。
町支さんのボーカルとギターは、浜田さんの時とはまた違った感じでとても素晴らしかった。
今回のソロツアーでぼくは改めて、町支さんのボーカリスト&ギタリストとしての素晴らしさを再認識した。

11月5日の福岡公演に再び浜田さんが遊びに来た。この日は元チューリップのメンバーで、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた姫野達也さんも来ていた。
楽屋はとても賑やかになった。

92年のコンサートの締めくくりは、12月18日に日本青年感で行われた久宝留理子さんのクリスマスライブと、24日のクリスマスイブに新宿で行われた山本英美くんのコンサートだった。二つともとても楽しくて素敵なコンサートだった。

目の回るような忙しさだった1992年もようやく終わろうとしていた。

町支寛二1992年のツアーパンフより。

2017/07/12

1992年 上半期の出来事

今回は1992年の上半期の出来事です。 

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1992年は多忙な一年になった。

1月15日に福岡県甘木市のホテルセンチュリーヒルズにて、松山千春のディナーショーのアンコール公演が行われた。バンドは昨年行われたディナーショーと同じメンバーで、日本のトップミュージシャンが集結した。ぼくも重圧に押しつぶされそうになりながらも、何とか責務を果たすことが出来た。そして一応この日をもって、約三年間続いたぼくの松山千春さんのサポート業務は終了した。

福岡から帰京すると、レコーディングのオファーが来た。
TVアニメ「YAWARA!」のアルバムのサウンドプロデュースの話だった。「YAWARA!」の主題歌や劇中歌をリアレンジして英語、スペイン語、フランス語で歌うという企画アルバムで、後にアルバムタイトルは「YAWARA! COVERS!!」と名付けられた。
ぼくは永井真理子さんが歌った主題歌「ミラクル・ガール」等を含むアルバムの半分、5曲のアレンジとサウンドプロデュースを担当することになった。

リズムセクションのレコーディングのため、ぼくは伊豆高原にあるキティレコードのスタジオに向かった。
今回のレコーディングメンバーは、ドラムス:河野道生、ベース:
江澤宏明、ギターは:ウィリー中尾、キーボード、アレンジ&サウンドプロデュース:板倉雅一。後日ダビングでサックスを園山光博さんに吹いてもらった。

伊豆スタジオでレコーディングをした曲は5曲。
永井真理子さんの「ミラクル・ガール」、辛島美登里さんの「笑顔を探して~Meet Me Again With Smile~」、原由子さんの「少女時代」。
他にバージョン違いで「ミラクル・ガール」のスペイン語版と「少女時代」のフランス語版もレコーディングした。

レコーディングで数日間伊豆のスタジオに滞在した後、一旦東京に戻ると今度は石渡長門くんのデモテープのレコーディングのため、箱根にあるサウンドボックス・スタジオに向かった。
サウンドボックス・スタジオは、幾多の名盤がレコーディングされたことでも有名なスタジオである。

今回の石渡長門くんのレコーディングは、浜田省吾さんのバンドで一緒に演奏していたThe Fuseの高橋くんと江澤くんに手伝ってもらった。
スタジオに入って久しぶりに、高橋&江澤コンビのリズムセクションの演奏を聴いてぼくは胸が高鳴った。彼等二人が醸し出すその素晴らしいグルーブ感に、改めて浜田バンドのリズム隊は最高のコンビだったんだなと思った。

石渡くんの箱根でのレコーディング中に東京から一本の電話が入った。電話の主は浜田省吾さんのオフィス、Road&SkyのIさんからだった。
わざわざ箱根までぼくを探して電話してくるとは、一体なんの用件だろう?と思い電話に出ると、あるバンドからのプロデュースの依頼の話だった。
何でもバンドの所属するマネージメントオフィスが、ぼくにプロデュースのオファーの連絡をようとしたのだが、ぼくの連絡先が分からないということで、浜田さんのオフィスに連絡をして来たと言うことらしかった。ぼくは恐縮しつつ、この案件の橋渡しをしてくれたIさんに丁寧にお礼を言った。

ぼくがプロデュースすることになったバンドは、infixというロックバンドでメンバーは、ボーカル長友仍世ドラムスの:大神豊治、ギターの:佐藤晃、ベース:野間口浩の四人組福岡を中心に活動していたバンドということだった。

infixは92年の3月にアルフィーの坂崎幸之助さんのプロデュースで、1stアルバムをリリースしてメジャーデビューをしたばかりだった。そしてすでに2ndアルバムのレコーディングの話が進んでおり、そのプロデュースをぼくに担当して欲しいとのことだった。勿論ぼくはそのオファーを快諾した。バンドをプロデュースするのは初めてだったので、果たしてどうなるのかぼくはとても楽しみだった。

石渡くんのレコーディングを終えて東京に戻ると、今度はほぼ同時に二件のオファーをいただいた。
一つはシンガーソングライター山本英美くんの全国ツアー、もう一つはエピックソニー所属の女性シンガー、久宝留理子さんのライブサポートの話だった。
こんなに同時にいくつものことを出来るのか、ぼくは不安だったが断る理由は無かった。ぼくにオファーをくれた方達の期待に応えるよう、ぼくは全力で取り組む決意を新たにした。

とにかくぼくは目の前のことを一つずつ遂行していくことにした。先のことを考えると気が遠くなりそうだったので、先のことはあまり考えないようにした。

間もなく怒濤の打ち合わせの日々が続いた。今日はバンダイビジュアル(infixのレコード会社)のディレクター、明日はエピックソニーのディレクター、次の日はキティレコードのディレクターと言った感じで、ぼくはせっせと毎日違うレコード会社や音楽事務所に通った。連日の打ち合わせ結果、膨大な数の曲のアレンジをしなくてはならなくなったため、しばらくの間ぼくは自宅に籠りきりの日々が続いた。

「YAWARA!」のレコーディングと併行して、山本英美くんと久宝留理子さんのライブのリハーサルも始まった。ぼくは久宝さんのライブのサウンドプロデュースも任されていたので、楽曲をライブ用にアレンジする作業も加わって、ますます多忙を極めた。

山本英美くんのライブは、フルバンド編成での全国ツアーだった。
山本英美 "BOY-issue" Tourと題されたツアーは、札幌、東京、名古屋、大阪、福岡で開催された。
バンドメンバーは、ドラムス:阿部薫ベース:恵美直也ギター:高橋圭一キーボード:板倉雅一コンピュータプログラミング:田辺恵二。そしてこの五人に山本英美を加えた六人編成のバンドだった。終始笑ってばかりのとても楽しいツアーだった。

ぼくはこのツアーの最中にもスケジュールの都合上、infixのレコーディングに向けて楽曲のアレンジ作業をしなければならない羽目に陥っていた。
英美くんのコンサートが終わって、旅先での打ち上げに繰り出すバンドのメンバーを横目に、ぼくは一人ホテルの部屋で黙々と譜面を書いていた。


英美くんのツアーの合間に、久宝さんのリハーサルのスケジュールが組み込まれていた。この時のぼくは英美くんのツアーから戻ると、久宝さんのリハーサルのため都心のスタジオへ、そしてリハが終わって帰宅してから、明け方まで諸々のアレンジ作業をすることの繰り返しだった。すでに頭と身体は悲鳴を上げだしていた
更にスケジュールの隙間を縫うように「YAWARA!」のレコーディングの日程が組まれていた。ぼくは家に帰ることが出来ず、度々スタジオに泊まり込むこともあった。

そしていよいよinfixのレコーディングもスタートした。レコーディングは世田谷の二子玉川からほど近い場所にある、スタジオ・サウンドダリで行われた。今回のレコーディングのチーフ・エンジニアは森元浩二くん。森元くんは石渡くんのレコーディングでも一緒の、ぼくが信頼をおいている若手のホープのエンジニアだった。

レコーディングに入る前にinfixのメンバー各々の力量を知りたかったのと、事前にぼくが書いた譜面に慣れて欲しかったため、メンバーとリハーサルスタジオでプリプロダクションを行った。
プリプロは思ったよりも難航した。バンドメンバーは譜面でのレコーディングに慣れていなかったため、ぼくがアレンジしてイメージしたサウンドを把握してもらうのに少々手間取った。
暫くはお互い手探りのような状態が続いたが、段々と意思の疎通が出来るようになってからはスムーズに進むようになって行った。

infixのレコーディングは数ヶ月の間続いた。それと同時進行で「YAWARA!」のレコーディングもまだ続いていた。レコーディングの期間中はずっと昼と夜が逆転したような生活が続いた。

レコーディングが続く中、久宝留理子さんのプロモーションビデオに出演することになった。メンバーは久宝さんとサックスの古村
敏比古くんとぼくの3人。「Go!Go!Everyday」と言う曲に合わせて演奏するシーンを撮影した。ぼくはビデオの中に挿入されるインストゥルメンタルのも作って、スタジオでレコーディングした。

それが終わるとすぐ久宝さんのコンサートが始まった。
久宝留理子さんのバンドメンバーは、ドラムス:大久保敦夫ベース:江澤宏明ギター:高村周作キーボード:板倉雅一サックス:古村敏比古コンピュータプログラミング:池田公洋。
バンドメンバーはぼくが選んで構わないとのことだったので、結果的に浜田省吾さんのバンドと、松山千春さんのバンドの混成メンバーのようなバンドになった。みんな百戦錬磨のミュージシャンばかりだったので、勿論出てくるサウンドは素晴らしかった。

92年の7月、仙台エルパークスタジオホールから始まった久宝留理子さんのコンサートは、年末の日本青年館でのクリスマスコンサートまで、日本中を駆け巡った。
ぼくは旅先の広島での束の間のオフを利用して、ギターの高村くんと宮島で海水浴を楽しんだ。

久宝さんのライブ、infixのレコーディングで寝る間も無いくらい多忙だったぼくの元に、また一つオファーが舞い込んで来た。
町支寛二さんがソロデビューすることになって、それに伴い全国ツアーを開催することが決まり、是非ともツアーバンドに参加して欲しいとの知らせだった。オファーは町支寛二さんが所属するロード&スカイからだった。正直ぼくは驚いた。

と言うのも、ぼくは浜田省吾さんのバンドを自分のわがまま辞めて行った輩な訳で、そんな人物にオファーをすることは、マネージメントサイドからしてみれば本意ではないのでは?などと余計なことを思ったりもしたのだが、それでもそんなぼくに声をかけてくれたことがとても嬉しかった。

再び町支さんと一緒にやれることはこの上ない喜びだったが、すぐに物理的な問題に直面した。スケジュールが合うかどうか、ぼくは関係各所に相談をさせていただき調整をする必要に迫られた。

目の回るような忙しさの92年の上半期が終わり、更に忙しくなりそうな下半期に向けてキチンと心と身体を整えねばと、ぼくは新たに気持ちを引き締め直した。


1992年春、伊豆スタジオ。YAWARA!レコーディング。

2017/06/17

松山千春 #3 1991年

今回は1991年の出来事です。

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1991年は松山千春のツアーに明け暮れた一年だった。
春のツアーは全国28カ所31公演、秋のツアーは全国29カ所32公演だった。

千春さんのバックバンドはメンバーの入れ替わりが激しく、毎ツアーごとに誰かが代わっていた。
バンドメンバーはみんな気の良い連中だったが、中でも89年の秋のツアーから加わったギターの高村周作くんは、ぼくと年も一つ違いで気も合い、好きな音楽も似ていることから、千春さんのツアー以外でも彼とはいろんな現場で長きに渡り一緒にやることとなった。

高村周作くんは、日本を代表するスーパーギタリストである松原正樹さんに師事したギタリストで、千春さんのバンドに加入する前は、長渕剛、加藤登紀子、さだまさし等のツアーやレコーディングに参加していた。もちろんギターのプレイも素晴らしくて、ぼくは千春さん以外のライブやレコーディングでもたくさんお世話になった。

他に一緒に千春さんのツアーを廻った主なメンバーは、リーダーでギターの丸山ももたろう(政幸)さん、ピアノの大石学くん、サックスの園山光博さん、倉富義隆くん等々。

ピアノの大石くんは本来はジャズ畑のピアニストで、自身のリーダーバンドを率いてバリバリに活躍していた。普段彼がやっているジャンルと、千春さんの音楽とはかなりかけ離れているのだが、不思議と大石くんのピアノと千春さんの歌は抜群に相性が良かった。

サックスの園山光博さんは、ぼくよりも少し年上のジェントルマン。
勿論プレーヤーとしても一流で、後に小田和正さんのバンドに加入して現在も小田さんと一緒に活動している。

倉富義隆くんは、桑田バンドや小比類巻かおる、鈴木雅之等のツアーでサックスを吹いていた気鋭の若手プレイヤー。カレーが大好物で、朝に宿泊先のホテルのレストランに入ると、必ずカレーを食べている倉富くんと遭遇した。

そして松山千春さんは、世間一般が思い描くパブリックイメージとは違って、とてもナイーブで心優しい方だった。ことあるごとにぼくにもよく気を遣ってくれた。

松山千春91年春のツアーが終了して、秋のツアーまでの夏の間に、ホテルでのディナーショーの開催が決まっていた。
デビュー15周年を記念しての初のディナーショー開催だった。
このディナーショーのために、日本屈指のミュージシャンを集めてのスペシャルバンドが結成された。

松山千春デビュー15周年記念ディナーショーのために招聘されたミュージシャンは
ドラムス:島村 英二
ベース:長岡 道夫
エレキギター:松原 正樹
アコースティックギター:笛吹 利明
キーボード:エルトン 永田
キーボード:板倉 雅一
パーカッション:木村 誠
サックス:金城 寛文

+ストリングス12名(チェロ、ビオラ、バイオリン)

指揮&編曲:飛澤 宏元

という錚々たるメンバーが集結した。
そして何故かそこにツアーバンドからぼくだけが抜擢された。

ドラムの島村さんは”吉川忠英&ホームメイド”や、カントリーロックバンド”ラストショー”のドラマーからスタジオミュージシャンに転身した方で、以前ぼくも浜田省吾さんのアルバム「Down By The Mainstreet」の中のぼくがアレンジした曲(Daddy's Town等)で、島村さんにドラムを叩いてもらった。
他にも吉田拓郎、大瀧詠一、松任谷由実等々、数えきれない程のライブやレコーディングに参加している日本屈指のドラマー。

ベースの長岡さんは”SHOGUN”のベーシストとして有名な方で、他にも中島みゆき、大瀧詠一、中森明菜、松田聖子等々のレコーディングでも活躍されている重鎮ベーシスト。

エレキギターの松原さんは、”ハイ・ファイ・セット”のバックバンドからキャリアをスタートさせ、林立夫、斉藤ノブ、今剛らとフュージョン・バンド”パラシュート”を結成。スタジオミュージシャンとしては今までレコーディングに参加した曲が1万曲を超えるという、素晴らしいギタリストである。

アコースティックギターの笛吹さんは長渕剛とのタッグが有名であるが、スタジオミュージシャンとしてもさだまさし、南こうせつ、谷村新司等々、挙げていったらキリが無い程のレコーディングに参加しているレジェンド。
以前ぼくが編曲した浜田省吾さんのレコーディングで、何曲か笛吹さんにアコースティックギターを弾いてもらった(Pain等)。

キーボードのエルトン永田さんは、松任谷由実のバックバンドからキャリアをスタートさせ、中嶋みゆき、吉田拓郎等々のツアー、レコーディングに参加している日本を代表する素晴らしいキーボーディストの一人。

そんなとんでもないミュージシャンの方達と、幸か不幸かぼくは一緒に演奏することとなった。
メンバーの中でぼくが面識のあったミュージシャンは、島村さん、笛吹さん、サックスの金城さん(浜田省吾82年の武道館ライブの時のサックス奏者)松原さん、パーカッションの木村さんの4人だった。

ディナーショーのためのリハーサルは僅か二日間だけ。
しかも譜面はリハーサル当日にならないと完成しないとのことだった。
出来れば事前に譜面と音源をもらって、予習をしておきたかったぼくは、リハーサル当日まで落ちつかない日々を過ごした。

やがてリハーサルの日がやってきた。不安と緊張の中、ぼくはリハーサルが行われる港区の湾岸沿いにある芝浦スタジオに向かった。
芝浦スタジオはレインボーブリッジのすぐ近くの埠頭沿いに建つスタジオで、すぐ目の前が海だった。海と行っても砂浜ではなく、護岸工事がなされたお世辞にも綺麗とは言えない海だった。

ぼくは緊張の面持ちでスタジオのドアを開けた。と、そこにはすでに何名かのミュージシャンが到着していてロビーで談笑していた。
ロビーの片隅のテーブルの上に、今回のディナーショーで演奏する曲の譜面がパートごとに分類されて、A4サイズの茶封筒に入って置かれていた。
ぼくは挨拶もそこそこに、すぐさま自分の名前が記された封筒を手にとり譜面の確認のために、リハーサルが行われるスタジオの中に入った。
その時ぼく以外に他に誰一人として、譜面の入った分厚い封筒を開けようとするミュージシャンはいなかった。みんな譜面には目もくれず、相変わらずロビーで談笑を続けていた。

広いスタジオの中は、すでにローディーによって楽器がセットされていた。
ぼくは数台のキーボード群に囲まれた自分のポジションに腰掛けると、さっそく譜面を広げた。スタジオの中にいるミュージシャンはまだぼく一人だけだった。

写譜屋さんの手によって綺麗に清書された譜面には、びっしりと音譜が書き込まれていた。コード譜ではなくいわゆる書き譜というやつだった。
初見があまり得意では無いぼくは、びっしりと書き込まれた譜面を見てかなり焦った。音譜を読譜して確認すると同時に、それに適したキーボードの音色も作らなければならない。
ぼくのパートはシンセサイザーがメインだったので、各フレーズの音色選びもかなり重要な要素の一つだった。

ひとりでアタフタしながら譜面と音色に格闘しているところに、ようやく他のメンバーがスタジオに入って来た。
それぞれのミュージシャンのポジションに置かれた譜面台の上には、スタッフの手によって譜面の入った茶封筒が置かれていた。
みんなは自分のポジションに付くと、そこで初めて一曲目の譜面を広げた。
すると間を空けずに指揮&アレンジの飛澤さんが一言言った。「じゃあ、一度最初の曲をやってみようか。」

ドラムの島村さんのカウントで一曲目の「燃える涙」が始まった。いきなりの完璧な演奏だった。ぼく以外のみんなは初見の譜面にも関わらず、涼しい顔をして(少なくともぼくにはそう見えた)演奏していた。
ぼくは日本屈指のミュージシャン達の力量と、曲への理解力と懐の深さに圧倒されていた。ぼくはみんなに付いて行くので精一杯だった。

一曲を一回するとほぼ完璧なため、すぐに次の曲に行く。そんあ調子で次々とリハーサルは進行していった。
数時間に及ぶリハーサルが終わった後、ぼくはホッとしたのと同時に今まで味わったことの無い疲労感に襲われていた。

1991年8月5日、松山千春デビュー15周年記念ディナーショーが、東京帝国ホテルで開催された。チケット料金は当時としては破格の5万円だった。高額にも関わらず、すでに全ての会場でチケットはソールドアウトしていた。

ぼく達バンドはショーの際にタキシード着用が義務付けられた。幸いなことにぼくは、数年前にタキシードを購入していたので事なきを得た。

ショーの前にお客さんには豪華なディナーが振る舞われた。ぼく達には普通の仕出し弁当が配給された(笑)

ディナーショーはとても華やかな雰囲気の中、無事に終了した。
来場したお客さんには記念として、松山千春オリジナルブランドのワインが配られた。

少しの緊張と戸惑いの中、初めてのディナーショーでの演奏は、終わってみればとても楽しい体験だった。何より素晴らしいミュージシャン達と一緒に演奏出来たことが、ぼくはとても嬉しかった。

ディナーショーは大阪と名古屋でも開催された。
8月7日がホテルニューオータニ大阪、8月9日が名古屋キャッスルホテルでの開催だった。そして翌92年1月15日、アンコール公演として同じメンバーで、福岡県甘木市ホテルセンチュリーヒルズでのディナーショーが開催された。 

名古屋でのディナーショーが終わった後、夏のイベントの締めくくりとして、8月24日に宮城県の多賀城緑地公園大代グランドで松山千春野外コンサートが行われた。バックバンドはいつもツアーバンドのメンバーに戻った。

9月は秋のツアーのリハーサルが行われた。
そして10月から始まった秋のツアーの合間に、ぼくは千春バンドのドラムの小林くん達と、鈴鹿サーキットで開催されたF1グランプリレースを観戦しに行った。中嶋悟選手の国内でのラストランでもあった。結果はリタイアに終わってしまったが、ぼくは中嶋選手のラストランを観ることが出来て満足だった。

秋のツアーのラストは、恒例となったクリスマスイブの北海道厚生年金会館での公演だった。今年ラストの札幌での公演で、千春さんのバンドは一旦解散することが決まっていた。
約3年弱の間、ぼくは千春さんのツアーを経験したことで、また一つステップアップすることが出来たと感じていた。

この年の札幌は雪のホワイトクリスマスだった。
無事にすべてのコンサートを終え、最後の打ち上げも終わり、夜も更けた雪の降り積もるクリスマスの札幌の街を、達成感と寂寥感を感じながら、ぼくはあてども無く彷徨っていた。

1991年夏、楽屋にて。

2017/05/22

松山千春 #2 1990年

今回は1990年の出来事です。

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1990年のぼくはとても多忙だった。
1月と2月は松山千春さんの「厚生団コンサート」と銘打った、全国7カ所の厚生年金会館でのコンサートツアーが開催された。
1/15〜23が都内でのリハーサル、1/27金沢、29名古屋、30大阪、2/1広島、2小倉、13東京、15札幌という日程だった。

厚生年金会館ツアーが終わると、今度は目黒のKey Stoneスタジオと箱根のSound Boxスタジオの2カ所で、石渡長門くんのデモテープのレコーディングが始まった。
箱根のスタジオは6日間の日程での合宿レコーディングだった。レコーディングのためのミュージシャンも一緒に箱根入りした。ベースは江澤くんにお願いをした。ぼくは再び江澤くんと浜田省吾さんのツアー以来、また一緒に演奏することが出来てとても嬉しかった。ドラムの大久保敦夫くんにも箱根まで来てもらって何曲か叩いてもらった。

3月も石渡長門くんのレコーディングが行われた。
3/4〜4/1までの間、再び場所をKey Stoneスタジオに移して、石渡くんのレコーディングが続いた。

4月からは松山千春さんの春のツアーがスタートした。全国29カ所32公演のツアーだった。
4月〜6月の3ヶ月間、びっしりとコンサートスケジュールが組まれていた。3ヶ月の間ほとんど旅に出ているような毎日だった。
その過密スケジュールの間を縫うようにして、レコーディングの日程が入っていた。TVアニメ「YAWARA!」のレコーディングだった。ぼくは劇中で流れる2曲のアレンジとサウンドプロデュースを担当した。内1曲は石渡長門くんの曲が採用された。

このレコーディングでは、主人公である猪熊柔役の声優の皆口裕子さんにも一曲歌っていただいた。とても好きな声優さんだったので、自分のアレンジした楽曲を歌ってもらえてぼくは光栄だった。

7月は「YAWARA!」のレコーディングの続きと、中森明菜さんのテレビ出演のためのバンドのリハーサル、石渡くんと同じくキティレコードの新人、吉井賢太郎(現ヨシケン)くんのデモテープのレコーディングと、千春さんのリハーサルが入っていた。

ひょんなことからぼくは中森明菜さんの、復帰第一弾のお手伝いをさせてもらうことになった。暫く休養していた中森明菜さんが、約1年3ヶ月ぶりに活動を開始して発表したシングル曲の「Dear Friend」を、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」で生演奏した。放映は8月22日だった。
当時はまだお台場ではなく、新宿にあったフジテレビのスタジオでのカメラリハーサルで、初めて明菜さんにお会いした。間近でお会いした中森明菜さんは、笑顔が素敵な美しい大人の女性だった。
ぼくは久しぶりのテレビの仕事に少し緊張したが、緊張している暇もなくあっという間に本番は終了してしまった。

8月は松山千春さんの野外イベントが、長野県の白馬と兵庫県の神戸で行われた。
白馬での野外ライブは、もの凄い迫力でそそり立つ北アルプスの山々がステージ上から見渡せるという、絶景の中での最高に気持ちの良いコンサートだった。
ぼくは本番までの時間、会場の横を流れる清流で水遊びをして過ごした。素晴らしく綺麗な川の水で、そのまま飲んでも大丈夫そうなくらい澄んだ水で恐ろしく冷たかった。天気も良くてぼくはすっかり日焼けしてしまった。

神戸六甲アイランドシティでの野外ライブは、東京から乗車予定の新幹線がトラブルで運行中止となり、急遽飛行機での移動となるハプニングもあって、会場への到着が本番直前になってしまったため、リハーサル無しのほとんどぶっつけ本番の中で行われたが、逆にそれが功を奏したのか、とても盛り上がるコンサートとなった。

8月の末には再び吉井賢太郎くんのレコーディングで、数日間箱根のスタジオに籠った。

9月になると、シンガーソングライター山本英美くんのリハーサルとライブがあった。英美くんとは、ぼくがお世話になっているイベンターの方からの紹介で知り合い、ぼくは英美くんのバンドのメンバーとして参加することになった。

9月後半からは千春さんの秋のツアーのリハーサルも始まった。
千春さんのリハの狭間の9月27日、吉井賢太郎くんのコンベンションライブが東芝EMIスタジオで行われた。この日のコンベンションライブは、レコード会社に対してのプレゼンテーションのための、オーディションのようなライブだった。スタジオの中に集まった観客はレコード会社の役職の方や、ディレクター、プロデューサー等全員が業界人。普段のライブとは全く違う異様なムードの中でのコンベンションだった。
ぼく達サポートバンドも、そのヒリヒリとしたムードを感じながらやや緊張しつつ演奏をした。

10月3日から松山千春さんの秋のツアー「男達の唄」がスタートした。3ヶ月で全国39カ所41公演を行うという超ハードなツアーだった。
ツアーの空き日だった10月15日には、ぼくの大好きなアメリカのカントリーロックバンド「POCO」の来日公演が、東京中野サンプラザで行われた。ぼくはずっと待ちこがれていたコンサートだったので、既にチケットも入手してこの日が来るのを楽しみにしていたのだが、ツアーの疲れからか風邪をひいて高熱が出て、POCOのコンサートに行くことが出来なくなってしまった。痛恨の事態だった。すごく残念だったが仕方がなかった。

まだ風邪が治りきらない10月21日、鈴鹿サーキットで行われたF1グランプリを日帰りで観戦しに行って来た。
初めて間近で観るF1カーの迫力とスピード、エンジン音にぼくはノックアウトされた。
当時ぼくは中嶋悟選手の走りに夢中だった。納豆走法などと揶揄されることもあった中嶋選手の走りは、生で観るのとTVで観るのとはまるで違ってもの凄く速かった。その走りはまるで敷かれたレールの上を走っているかのように、コーナーでも非常に安定していた。中嶋選手は全然遅くなかった。

11月は千春さんのコンサートと、山本英美くんのコンサートで息つく間もなかった。

12月もびっしりと千春さんのコンサートが入っていた。
12月6日に行われる高松での公演のため、ぼくは羽田から高松行きの飛行機に乗り込むと、機内で元チューリップの姫野達也さんとばったりお会いした。姫野さんはぼくが浜田省吾さんのバンドを脱退した後に、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた。

ぼくは以前から姫野さんとは面識があったので、姫野さんの席まで挨拶をしにいった。
すると姫野さんは、浜田さんのコンサートのため高松に行くところだと言った。
何と同じ日に同じ四国の高松で、千春さんと浜田さんのコンサートが行われるということだった。ぼくはそんなことはまるで知らなかったのでとても驚いた。
この日、千春さんは高松市民会館、浜田さんは香川県県民ホールでの公演が予定されていた。

高松市民会館での千春さんのリハーサルが終わった後、ぼくは本番までの短い時間を利用して、タクシーを飛ばして香川県県民ホールに向かった。高松市民会館からはほんの数分程の距離だった。
香川県県民ホールに到着し楽屋にお邪魔すると、懐かしい顔ぶれの数々がぼくを迎え入れてくれた。浜田さんのところもちょうどリハーサルが終わったばかりで、みんなステージから楽屋に戻っていた。楽屋の廊下ではたくさんのスタッフが行き来していた。

バンドメンバーやスタッフ達との嬉しい再会を果たした後、ぼくは浜田さんの楽屋を訪ねた。
浜田さんもぼくをとても歓迎してくれた。浜田さんとは今年の冬に新宿厚生年金会館で会ったばかりだったので、そんなに久しぶりというわけではなかったのだが、東京ではなく旅先で会うと言うのはまた感慨深いものがあった。
短い時間ではあったが、ぼくはみんなと再会出来たことが凄く嬉しかった。

またタクシーを飛ばして慌てて高松市民会館に戻ったぼくは、興奮気味にそのことを千春さんのバンドのメンバーに話すと、バンドのみんなもとても喜んでくれた。

高松でのコンサートが終わって打ち上げから戻ったぼくは、どうしようか何度も躊躇したが、今日の感謝の気持ちを伝えたくて、思い切って浜田さんが宿泊しているホテルに電話をした。フロントに事情を話して浜田さんの部屋に繋いでもらおうとしたが、すでに浜田さん達は次の公演地である徳島に向けて出発してしまったとのことだった。
感謝の言葉を伝えられなかったのは残念だったが、出過ぎた真似をしてしまったかもしれないと、すでに後悔しだしていたので、浜田さんに電話が繋がらなかったことで、ちょっとホッとしたことも事実だった。

12月も札幌での最終公演まで絶え間なくコンサートが続いた。
クリスマスの札幌公演が終了して帰京し、ようやくぼくも一息つくことが出来た。

年の瀬を迎え、間もなく1990年も終わろうとしていた。
浜田さんのバンドを脱退し、千春さんのバンドに加入してもうすぐ2年が経とうとしていた。

松山千春さんのツアーにて。1990年頃。

2017/05/15

松山千春 #1 新たな船出

浜田省吾さんのバンドを脱退したぼくは、松山千春さんのツアーに参加することとなります。今回はそんな話を。

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1989年の春に浜田省吾さんのバンドを正式に脱退したぼくは、当然ではあるがいきなり何も仕事が無くなってしまった。この先どうするか何のあてもないまま脱退してしまったため、早急に新たな仕事を探す必要に迫られた。とはいうもののこの時点では本当に何のあても無かった。

ひとまずぼくは片っ端から知り合いのミュージシャンや業界の方々に電話をした。
当時のぼくはマネージメント・オフィス等に所属していなかったため、全くのフリーランスとして活動していた。

いろんな人に連絡をした結果、何件かのオファーをいただいた。
その中のひとつに、知り合いのミュージシャンから松山千春さんのバンドがキーボード奏者を探しているという話があった。
なんでも千春さんのバンドがメンバーを一新するらしく、他のパートは決まったのだがキーボードだけがまだ決まっていないとのことだった。
ぼくは是非とも推薦してくれるよう、知り合いのミュージシャンに頼んだ。

後日千春さんのバンドのリーダーの方から、是非参加して欲しいとの連絡をもらった。多少の不安はあったが、ぼくは松山千春さんのバンドに加入することになった。新たな船出の始まりだった。

ツアーは4月からスタートとのことで、すぐにリハーサルが始まった。
ぼくは浜田さんのバンドを脱退した感傷に浸っている場合ではなくなった。

千春さんのバンドでのぼくの担当はピアノではなく、シンセサイザー関連を受け持つことになった。
これはぼくの方からリクエストをした。長年浜田さんのバンドでピアノを弾いていたことと、当時のシンセサイザーブームも手伝ってか、ぼくはそれまでと違うポジションにチャレンジしてみたかった。

千春さんのバンドに加入した最初の頃は、あまりの環境の変化に戸惑うことばかりだった。
中でもいちばん驚いたのは、千春さん本人がリハーサルに殆ど現れないことだった。千春さんは北海道在住のため、上京した際にリハとゲネプロ(本番さながらの通しリハーサルのこと)をまとめて行うようなシステムになっているとのことだった。
よって、本人不在の間のリハーサルの進行は、バンドリーダーに一任されていた。

リハーサルを重ねるにつれ、次第に現場の雰囲気とバンドメンバーとも打ち解けて来て、ぼくは徐々にペースを掴む事が出来た。
新たなパートであるシンセサイザー周りも、音作りの楽しさとピアノとはまた違ったアンサンブルの深さに魅了されていった。
バンドメンバーも素晴らしいミュージシャンばかりだった。

1989年4月2日、松山千春の春のコンサートツアー「蒼き時代の果てに」がスタートした。全国31カ所34公演というスケジュールが組まれていた。
千春さんのコンサートツアーは毎年春と秋の二回行われていて、夏はイベントが数本というスケジュールが組まれていた。
4月から始まったツアーは、ツアー途中で急遽ピアニストが交代するというハプニングもあったが、それ以外は順調にぼくも乗り切ることが出来た。

春のツアーが終了して、7月の終わりに仙台泉パーク・スポーツガーデンという斜面を利用した会場で、松山千春の野外イベントが行われた。
ぼく達バンドは前日に仙台入りした。するとその日に同じ場所でロバータ・フラックのコンサートが行われているということを聞いて、ドラムの小林くんと観に行った。芝生に寝転んで夏の夜風に吹かれながら聴くロバータ・フラックのコンサートは最高だった。

8月は山形県米沢市営競技場、岩手県市営花巻野球場、山形県酒田市北港特設ステージ、新潟小針浜特設ステージで野外コンサートが行われた。真夏の野外コンサートは暑さとの戦いでもあったが、どの会場も開放的な雰囲気でとても楽しかった。

10月からは秋のツアー「ISHI」がスタートした。
12月末の札幌公演までの全国36カ所41公演のツアーだった。

ぼくは89年の春に浜田省吾さんのバンドを脱退し、松山千春さんのバンドに加入してから約80本のコンサートを行った。浜田さんのコンサートと合わせると89年は約100本のコンサートを行ったことになる。浜田さんのバンドを脱退した時、身も心も疲れ果てていたぼくだったが、結局あまり休む間もなく、また例年と同じような生活に戻っていた。それでも違った環境に身を投じたことに、ぼくは疲れよりも充実感を感じていた。

年が明けて1990年の1月に、全国の厚生年金会館で行われた「松山千春スペシャル・コンサート」が開催(全国7力所7公演)された。
この東京公演が行われた新宿厚生年金会館でのコンサートの楽屋に、浜田省吾さんが訪ねて来てくれた。
約一年ぶりの浜田さんとの再会だった。結果的にあまり後味の良くない去り方をした(と当時自分ではそう思っていた)ぼくに、浜田さんが会いに来てくれたことがぼくは無性に嬉しかった。いや、ひょっとしたらそうではなくて、浜田さんは松山千春さんに会いに来たのかもしれなかったが、それでもぼくは嬉しかった。

浜田さんは最後までコンサートを観て行ってくれた。千春さんも浜田さんが来てくれたことが嬉しかったようで、コンサート中のMCでも浜田さんが来ていることを告げていた。
終演後、再び楽屋に来た浜田さんは、ぼくに良い演奏だったと声をかけてくれた。その後浜田さんと千春さんが談笑している姿を見ていたぼくは、何とも言い表しようのない複雑な気持ちになった。

松山千春の90年春のツアーは、4月19日から32本のスケジュールが組まれていた。
ツアーが始まって中盤を過ぎた初夏のある日、ぼくは浜田さんと二人で逢う機会があった。

浜田さんとしばらくいろんな話をした後、ニューアルバム「誰がために鐘は鳴る」の話題になった。浜田さんはぼくに尋ねた。「板さん、出来たばかりの今度のニューアルバム、聴いてくれた?」「はい、聴かせてもらいました。とても素晴らしい作品だと思いました。ただ聴いている内に胸が痛んで苦しかったです。」ぼくは正直な感想を述べた。

ぼくは今回のアルバムの内容と自分を投影して聴いていた。当時のぼくにはどうしてもそういう風に聴こえてしまうような作品だった。
「そうか。」そのことに関して浜田さんは多くを語らなかったが、ちょっと寂しそうな表情で笑ったのがとても印象に残った。

千春さんのツアーに帯同するようになって1年が過ぎ、多忙で充実した日々を送りながらも、どこか心にぽっかりと空いてしまった穴が埋まるための時間が、まだまだぼくには必要だった。

1990年頃、本番前の楽屋にて。何故か虚ろな表情(笑)

2017/05/05

浜田省吾 #35 脱退

「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」ツアーが終わった後、ぼくは浜田省吾さんのバンドを脱退しました。今回はその話を。

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1989年の春、ぼくは約10年間在籍した浜田省吾のバンドを脱退した。

ぼくが浜田さんのバンドを脱退した時、随分といろんな噂を耳にした。中でも一番多かったのがぼくが当時新婚で、ツアーの度に家を空けるのが嫌だったからバンドを脱退したというもの。
全くのお門違いだった。ぼくは新婚ではなかったし、旅に出ることも別に嫌ではなかった。
他にも随分といろんな誹謗中傷の類いも受けた。謂れの無いことでぼくは傷ついた。
でもどれも的外れの噂話でしかなかった。

1988年3月17日からスタートした「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」ツアーの後半戦が、9月12日の鹿児島市民文化ホールからスタートした。89年2月7日の大阪城ホールまでの計51本のツアーだった。途中体調を崩しかけた時期もあったが、前半戦と合わせて約100本、1年間に及ぶ大規模なツアーは無事終了した。
ただひとつだけ今までのツアーと違ったのは、自分でも説明のつかない苛立ちにも似た感情と、隣り合わせになりながらツアーを廻ったことだった。

ツアーが終わって間もなく、浜田省吾のニューアルバムのレコーディングスケジュールが組まれていた。今回もバンドのメンバーでレコーディングを行うことが決まっていた。
と、そこにベースの江澤くんがバンドを離れることになった、という知らせが舞い込んで来た。
ぼくは次のツアーもレコーディングも、現行のメンバーで行うものだとばかり思っていたので、この知らせは全くの寝耳に水だった。
ぼくはすぐに江澤くんに電話をしてどういうことなのか尋ねた。

ぼくは江澤くんのミュージシャンとしてのセンスと才能をリスペクトしていたので、彼の脱退はかなりのショックだった。彼とは10代のアマチュアの頃からの知り合いで気心も知れていたので、ツアー中も一緒に行動を共にすることが多かった。ぼくは江澤くん脱退の知らせを聞いてから、自分の中で何かが変わって行くのを感じていた。

他にもいろいろな事が幾重にも折り重なって、段々とぼくはそれまでと同じような気持ちを保つことが難しくなっていった。そして次第にぼくは浜田さんのバンドを辞めることを考え始めていた。
そんな風に思うようになったのは、江澤くんが辞めることになったことがきっかけではあったが、彼が抜けるから自分も、と言うような単純な理由では全く無かった。

浜田さんの音楽感との距離感、思っていることとやっていることの違いへの苛立ち、自分のアイデンティティとは?等々、そんなことを延々と逡巡していた。
今だったら笑い飛ばしてしまえるようなことも、当時のぼくには容易いことではなかった。

浜田省吾のバンドに在籍していることは名誉なことだったし、日本のシンガーソングライターの中では一番リスペクトしていたし、自分と浜田さんの価値観や感性が近いと感じていたし、浜田さんがぼくのことを信頼してくれていることも理解していたし、勿論そのことに深く感謝していた。

ぼくは約10年間浜田さんのバンドでキャリアを磨いて来て、ミュージシャンとしても一人の人間としてもとても影響を受け、そしてこの10年で自分なりにも成長出来たと感じていた。
このまま浜田さんのバンドにいれば、しばらくは安定した音楽人生を送れるだろう。しかしながら、それを許容出来なくなっている自分がいた。

ぼくはそんなことを何日も何日も考え、自問自答を繰り返し苦しんだ。そして結論を出した。
「浜田省吾のバンドを脱退しよう」。
全くのぼくの独断とわがままだった。

ぼくはぼくの中で複雑な知恵の輪のように絡んでしまった、ネガティブな感情が制御出来なくなってしまっていた。心身ともにとても疲れて果てていた。

ツアーが終わってしばらく経ったある日、ぼくは思い切ってそのことを浜田さんに告げた。
浜田さんはぼくの話をずっと黙って聞いていた。そしてやがて重い口を開いた。
「板倉の気持ちはよく分かった。でももう一度考え直して欲しい。」
涙が出るくらい有り難い言葉だった。
「本当にすみません、でももうぼくは以前のようなパッションを持てなくなりました。」
「パッションって?」浜田さんが聞いた。「情熱…みたいなことです。」

長い沈黙が続いた。

重い空気を取り払うように、同席していたR&SのT社長が一言言った。「板さん、少し休暇を取るような気持ちでいれば。そしてまた戻って来たくなったら来れば良いし。」
T社長の暖かい言葉に、ぼくは申し分けない気持ちでいっぱいになった。

ぼくが辞めることを知ったバンドのメンバー達は、とにかく一度みんなで話し合おうと言うことで、世田谷のとあるバーに全員が集まってくれた。
そこでぼくにもう一度思い直すように、また今まで通りに一緒にやろう、と言うことを夜を徹して説得してくれた。
またしてもぼくは涙が出そうなくらい嬉しかった。メンバーからの熱い言葉にぼくの心は激しく揺れ動いた。

ぼくは少しの間、自分の気持ちと対峙する時間をもらった。

レコーディングスタジオでは、すでにニューアルバムのレコーディングが始まっていた。
スタジオでもぼくのためにスケジュールを調整して待っていてくれた。もうこれ以上、各所に迷惑をかける訳にはいかなかった。

浜田省吾の音楽は大好きだったけど、このまま自分の気持ちを封印してバンドに残れば、きっとぼくは浜田さんの音楽を愛せなくなってしまうだろう。

自分のわがままでみんなに迷惑をかけてしまうことは、本当に申し訳なく心苦しかったけれど、やっぱりぼくはバンドを脱退することにした。
1979年7月に浜田省吾のバンドに参加してから、もうすぐ10年の月日が経とうとしていた。

1988年9月16日 熊本市民会館。
リハーサル前のサウンドチェック。