2017/02/24

浜田省吾 #33 「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」

今回は1988年3月17日からスタートした浜田省吾さんのコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と食べ物の話など。

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1988年3月17日、「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と銘打った約100本に渡る浜田省吾の大規模なツアーがスタートした。
バンドはメンバーにキーボードの梁邦彦くんと、トランペットの小林正弘くんが加わってThe Fuseは7人編成になった。

ぼく達は前の日の3月16日に初日の公演地である宮崎入りした。
最初のツアーは、宮崎〜大分〜小倉と廻る全6公演10日間の旅だった。宮崎での宿泊はリバーサイドホテルという、その名のとおり大淀川沿いに立つホテルだった。ホテルの裏手には有名な釜揚げうどんの店があった。
コンサート初日の会場入りする前に、ぼくは早速ベースの江澤くんとその釜揚げうどんの店で昼食を食べた。噂に違わずとても美味しいうどんを堪能した。

宮崎公演は17,18日の二日間公演だった。初日のコンサートこそ緊張したが、二日目からは段々とペースが掴めて来た。九州ツアーは20,21の大分公演、23,24の小倉公演と続き、3月25日に10日ぶりに帰京した。
その後もコンサートは北陸〜四国〜中国〜東京〜北関東〜東北〜近畿〜山陰と、途切れること無く続いて行った。まさにツアーという言葉がぴったりだった。

コンサートツアーと言えば、ほぼ毎日のように次の公演地への移動と違うホテルでの宿泊が繰り返される。ぼくは移動の乗り物は飛行機以外はそんなに苦手ではなかったが、連日寝床が変わるのがあまり得意ではなかった。
毎日違うホテルで固さの異なるベットと枕に順応するのが苦手だった。時には一晩中眠れないこともあった。
元々枕が変わると眠れないほうなので、自分の枕を持って行くことを真剣に考えたこともあったが、さすがにそれはしなかった。

ツアーでの楽しみの一つは訪れる街の美味しいものを食べることや、街を散策することだった。
でもぼくは豪華な食事よりも、その土地の庶民的なものを食べるほうが好きだった。
コンサートが終わった後に毎回打ち上げが行われるというわけではなく、時には三々五々自由に食事に出ることも度々あった。

旅も長くなると、一緒に行動する面子というのが決まって来て、ぼくはベースの江澤くんと一緒にいることが多かった。
ぼくも江澤くんもあまりお酒が得意ではなく、旧知の間柄だったこともあってか良く行動を共にした。
お酒が好きな古村くんは、同じく酒好きの梁くんや高橋くんと一緒に行動することが多かった。

時には、コンサートを観に来ていたお客さんと食事先の店でばったり遭遇し、意気投合して一緒に飲み食いしたりしたこともあった。

博多では夜になるとたくさんの屋台が道端に出る。ぼくは博多の屋台で食べる天ぷらやおでんが大好きだった。

名古屋では大須の焼き鳥屋「やば町」によく行った。ここのちょっと偏屈なおやじさんの蘊蓄を聞きながら食べる焼き鳥の味は格別だった。

金沢では「宇宙軒食堂」という、ちょっと怪しい感じの定食屋に毎回行った。今では有名になってしまったようだが、ぼく達が行っていた頃は地元の人しか食べに来ないようなひっそりとした食堂だった。

広島は「むさし」のうどんとおにぎり、「みっちゃん」の広島焼き、駅構内の立ち食いうどん屋、東京にもあるベーカリー「アンデルセン」の総本山?がお気に入りだった。あと「中ちゃん」も。

盛岡ではいつも決まってメンバースタッフ総出で椀子そばを食べに行った。何度か「浜田省吾杯争奪わんこそば選手権」なる大会も行われた。優勝するのはいつも決まって百数十杯を平らげるスタッフの誰かだった。
浜田さんやバンドのメンバー達は、とてもスタッフの食べる勢いにはついて行けなかった。

新潟は「越後屋」というおにぎり屋のおにぎりがお気に入りだった。
福井の会館の裏手にある肉屋のコロッケもバンドメンバーみんなのお気に入りだった。
揚げたてのホクホクのコロッケを買って来て、楽屋でパンに挟んでソースをかけてよく食べた。
長野で食べるそばの味もまた格別だった。

残念ながら現在は閉店してしまったようだが、長崎の「オビナタ」というイタリアンレストランも大のお気に入りの店だった。
ここはクラシカルな内装の店内と、美味しい料理、そしてホスピタリティが抜群の店だった。

北海道は美味いものの宝庫だった。
札幌では毎回何を食べようか悩んだ。札幌に行くと必ずと言っていいほど食べるラーメンは、バンドメンバーそれぞれお気に入りの店があってみんな違う店に行っていた。ぼくは「味の三平」が好きで毎回必ず行った。
函館は「五島軒」のカレー、帯広は「炉ばたのあかり」、旭川は「蜂屋」のラーメン、釧路は炉ばた焼き発祥の地と言われている、その名もずばり「炉ばた」等、本当に美味しい店だらけだった。

岡山の天神そばや四国は高松のうどんも絶品だった。
宇高連絡船の船内で、海風に吹かれながら食べるうどんもまた最高だった。

沖縄ではステーキと洋食とハンバーガーとアイスクリームが楽しみだった。
ステーキは大概「ジャッキー」か「サムズ」、洋食はイタリアンのようなファミレスのような「ピザハウス」という店、沖縄のスーパー「ジミー」に併設されているアップルパイ、ハンバーガーは「A&W」、アイスクリームは「ブルーシール」がお気に入りだった。

ぼくは一度普天間の「ピザハウス」で浜田さんに間違われたことあった。
その日、宜野湾コンベンションセンターでのコンサートを終え、普天間の「ピザハウス」で食事を楽しんだ後、会計の列に並んでいたら、コンサートを観に来たらしいお客さんからいきなり「浜田省吾さんですよね?」と声をかけられた。
ぼくは即座に否定したのだが、相手は浜田省吾に間違いないと言って譲らない。おそらくぼくがサングラスをかけていたこともあって間違えられたのではないかと思うが、そもそもぼくと浜田さんはそんなに似てないと思うのだが。

何度否定しても相手は全然納得していない様子なので、だんだん面倒くさくなって来て、最後は「はい、ぼくは浜田さんではありませんが、あなたがそんなに言うのなら、もしかしたら浜田省吾なのかもしれません。」ということで納得していただいた(笑)

「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」は3月17日の宮崎公演から7月16日の仙台公演までが前半戦で、計48本のコンサートが組まれていた。
ぼくはこの頃からだんだん視力が落ちて来ているのを感じていた。
コンサートの最中のステージから客席は暗くて殆ど見えないのだが、会場の出入り口の扉の上に点灯している「非常口」という緑色のライトはステージからよく見えた。
コンサートの本数が進むにつれ、その「非常口」と書かれた誘導灯のパネルが段々とぼやけて見えるようになって来た。
前半最後の仙台市体育館での公演の頃には「非常口」の文字が殆どぼやけて見えなくなってしまった。

ぼくは仙台から戻るとすぐに眼科に行って検眼をしたところ、それまで両目とも1.2〜1.5ぐらいあった視力が0.2ぐらいに落ちていた。これにはかなりショックを受けた。
詳しい原因はよく分からないが、31才にして急に近視になってしまった。
おそらく長年ステージでものすごい光量のライトを浴びていたことも、原因の一つではないかと勝手に推測したが、本当のところはよく分からない。

4月2日の磐田市と3日の豊橋での公演を終えたぼく達は、次の公演地である四日市への移動日に、夏に行われる野外イベント会場の下見のために浜松へ向かった。そこは渚園と呼ばれる広大な敷地だった。8月にここで三回目となる浜田省吾のビッグイベント「A PLACE IN THE SUN」が行われることが決まっていた。
まだ何もないだだっ広い敷地に数万もの人が集まることになるのが、この時には中々イメージ出来なかった。

1988年8月20日、浜名湖畔の渚園で観客動員数が5万人とも6万人とも言われた、浜田省吾の野外イベント「A PLACE IN THE SUN」が開催された。
その話はまた次回。

 「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」前半戦 日程
1. 03月17日(木) 宮崎市民会館
2. 03月18日(金) 宮崎市民会館
3. 03月20日(日) 大分文化会館
4. 03月21日(月) 大分文化会館
5. 03月23日(水) 九州厚生年金会館
6. 03月24日(木) 九州厚生年金会館
7. 04月02日(土) 岩手市民文化会館
8. 04月03日(日) 豊橋勤労福祉会館
9. 04月05日(火) 四日市市文化会館
10. 04月06日(水) 静岡市民文化会館11. 04月11日(月) 長岡市立劇場
12. 04月12日(火) 上越市文化会館
13. 04月14日(木) 石川厚生年金会館
14. 04月16日(土) 富山市公会堂
15. 04月17日(日) 福井フェニックスプラザ
16. 04月28日(木) 高知県民文化ホール
17. 04月29日(金) 愛媛県県民文化会館
18. 05月01日(日) 山口市民会館
19. 05月02日(月) 下関市民会館
20. 05月04日(水) 岡山市民会館
21. 05月12日(木) 代々木第一体育館
22. 05月13日(金) 代々木第一体育館
23. 05月15日(日) 代々木第一体育館
24. 05月16日(月) 代々木第一体育館
25. 05月24日(水) 山梨県民文化ホール
26. 05月25日(木) 松本社会文化会館
27. 05月27日(土) 長野県民文化会館
28. 05月28日(日) 長野県民文化会館
29. 05月30日(火) 群馬県民会館
30. 05月31日(水) 宇都宮市文化会館
31. 06月04日(土) 秋田県民会館
32. 06月05日(日) 大館市民文化会館
33. 06月07日(火) 青森市文化会館
34. 06月08日(水) 八戸市公会堂
35. 06月10日(金) 岩手県民会館
36. 06月15日(水) 足利市民会館
37. 06月21日(火) 神戸文化ホール
38. 06月22日(水) 神戸文化ホール
39. 06月24日(金) 和歌山県民文化会館
40. 06月26日(日) 鳥取市民会館
41. 06月28日(火) 島根県民会館
42. 06月29日(水) 島根県民会館
43. 07月05日(火) 新潟県民会館
44. 07月06日(水) 新潟県民会館
45. 07月12日(火) 山形県民会館
46. 07月13日(水) 山形県民会館
47. 07月15日(金) 仙台市体育館
48. 07月16日(土) 仙台市体育館

1988年9月、沖縄のホテルで江澤くんと。

2017/01/14

浜田省吾 #32 「FATHER'S SON」

今回は1988年3月16日に発売された浜田省吾さんのアルバム「FATHER'S SON」の話です。

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1987年10月28日、渋谷区初台のレオミュージックスタジオで、浜田省吾のニューアルバムのプリ・プロダクションが始まった。
プリ・プロダクションとはレコーディングする楽曲のアレンジを考えたり、サウンドの方向性を決めたりする作業のことである。

今回のレコーディングからバンドに新たなメンバーとしてキーボードの梁邦彦くんが加わって、レコーディングでもぼくと梁くんのツイン・キーボード体制で行くことになった。

プリプロの何日か前に、ぼく達は青山のロード&スカイに集合した。
楽曲のアレンジ担当者を決めるためのミーティングだった。

事務所に行くと、浜田さんがニューアルバムに収録する予定の曲の簡単なデモテープを作って来ていた。
バンドメンバーが全員集合すると、浜田さんがテーブルの上に10本のカセットテープを置いた。10本のカセットにはニューアルバムに収録予定の曲の簡単なデモが一曲ずつ録音されていた。

「アルバムに収録する予定のデモテープを作って来たので、みんなでテープを聴いてアレンジしたい曲を選んで欲しい。」そう言って浜田さんは、傍らのカセットデッキにデモテープを装填して一曲ずつかけていった。

約一時間程かけて全部のデモテープを聴き終えた。
各自アレンジしたい曲を選んで欲しいとのことだったが、大体の割り振りはすでに浜田さんの頭にあるようで、「この曲は梁くん、この曲は町支。」と次々と浜田さんからリクエストがあった。浜田さんからの要望で約半分の曲の割り振りが決まった。ぼくが浜田さんからリクエストを受けた曲はバラードナンバーだった。

残りの半分の曲はメンバーで話し合って、誰がアレンジを担当するか決めて欲しいとのことだった。
この後浜田さんはアメリカに旅立つので、帰国するまでにすべての分担とアレンジを完成させておいてくれと言って去って行った。

ぼく達バンドのメンバーは、残りの半分のデモテープを眺めながら誰がアレンジを担当するか話し合った。
今回のレコーディングは、新メンバーの梁くんをメインにやろうということになったので、必然的に梁くんの担当する曲が多くなった。

しばらくしておおよその曲の分担が決まったが、テーブルの上に一本のカセットテープだけが残った。
「この最後の一曲、どうする?誰がアレンジやる?」メンバーの誰かが言った。
「う〜ん、この曲だけどうも見えないんだよね。」また誰かが言った。最後に残った一曲はメンバー全員がアレンジを躊躇するような、ちょっとサウンドが見えにくい曲だった。
結局その一曲だけは誰も挙手をするものがいなく、浜田さんが帰国するまで放置されることとなった。

やがて浜田さんが帰国して、再び事務所でミーティングが開かれた。
「どう?残りの曲の分担決まった?」浜田さんが聞いて来た。
「それが一曲だけ誰もやりたがらない曲があって、まだ手つかずなんだ。」メンバーを代表して町支さんが言った。
「え?その一曲ってどれ?」浜田さんが聞いた。「そこに置いてあるカセット。」そう町支さんは言った。
浜田さんがそのカセットを手にとってデッキにセットした。やがてスピーカーからダークなトーンの曲が流れて来た。

「この曲は別に難しく考えなくても大丈夫。ダンスビートを刻むシンセベースと、タイトな生のドラムのグルーブが融合したリズムに、ハードなギターが絡んでくるようなアレンジにして欲しいんだ。そうだなぁ、板倉やってくれる?」
「えっ?オレですか!?」ぼくはびっくりして尋ねた。
「今回板倉のアレンジはまだ一曲だけだし、この感じは板倉が合っていると思う。」さらりと浜田さんは言った。
「分かりました、さっきの説明を聞いて大体の感じは掴めたのでちょっと考えてみますね。」

これでぼくがアレンジを担当する曲はバラードナンバーと、みんなが手をつけるのを躊躇した問題の曲の二曲となった。しかしその曲は結果的にアルバムの核となる重要なポジションを占める一曲となった。

1987年11月1,2,4日の三日間と、間に石渡長門くんのリハーサルを挟んで、11日と14日の計五日間、目黒のヤマハスタジオと初台のレオミュージックスタジオ、新宿のミュージックシティスタジオで、ニューアルバムのプリ・プロダクションを行った後、11月16日から信濃町のソニースタジオで、ぼくの担当する曲のレコーディングが始まった。

ぼくがアレンジを担当した曲は後に「NEW YEARS EVE」「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」とタイトルが付けられる2曲。
今回のアルバムのアレンジは町支さんが3曲、古村くんが1曲、ぼくが2曲、梁くんが4曲を担当することになっていた。

キーボードプレイヤーが二人になったことで、どちらがどの楽器を担当するか梁くんと話し合った。
基本的には自分がアレンジした曲は自分が弾くということになったが、曲によってはぼくのアレンジした曲で梁くんがピアノを弾いたり、梁くんのアレンジでぼくがピアノを弾いたりした曲もあった。
町支さんと古村くんのアレンジした曲でも、レコーディングをしながら楽器の分担を決めて行った。

ぼくは今回2曲だけのアレンジだったが、サウンドを考えるのに結構時間がかかった。特に「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」は、浜田さんからの要望と自分のイメージするサウンドが合致するまで、何度も試行錯誤を繰り返した。
まずは打ち込みによるシンセベースのラインを考えることから始めた。8ビートでフレーズをシーケンスするようなクールなベースのラインを作った。そしてそれに呼応するようなタイトなリズムのドラムのパターンを考えた。
リズムの上に乗っかる楽器は、イントロとアウトロのテーマを吹くサックスとギターの掛け合いのフレーズや、間奏のブレイク部分やサビのバックで繰り返されるストリングスのライン等、細部に渡ってフレーズを譜面に書き込んだ。

レコーディングは断続的に1988年の1月の終わりまで続いた。ちょうどこの頃ぼくは幼馴染みでもある、石渡長門くんという新人のシンガーのレコーディングとライブも受け持っていたので、それこそ目の廻るような忙しさだった。渋谷のTake Off7とエッグマンで行われた石渡くんのライブは、江澤くんと古村くんにも手伝って貰った。

アルバム「FATHER'S SON」に参加した主なレコーディングメンバーは以下の通り。
ドラムス:高橋伸之
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
キーボード:梁邦彦 板倉雅一
サックス:古村敏比古
トラッペット;小林正弘
トロンボーン:清岡太郎
パーカッション:ペッカー

他にも曲によってはゲストのミュージシャンに参加してもらった。
「NEW YEARS EVE」では、宮野弘紀さんにガットギターを弾いてもらった。この曲のアレンジは音数を少なくして、淡々とした中にも情感が溢れるようなイメージで作り込んだ。宮野さんの奏でるガットギターは、浜田さんのボーカルに寄り添うような素晴らしい演奏だった。

「FATHER'S SON」のレコーディングは、それまでのアルバムのレコーディングよりも更にアレンジを担当した者が中心になって行われたため、J・BOYの時よりもシステマチックに行われた。ぼくもすべての現場に居合わせた訳では無いので、自分のアレンジした曲以外の曲のリズム録りが終わって、しばらくしてスタジオに行くと、たくさんの楽器がダビングされていて驚いたことも多々あった。

1月末にアルバムのレコーディングが終わるとすぐにぼくは、石渡長門くんのレコーディングのため、箱根のレコーディングスタジオに向かった。約一週間のレコーディングを終え帰京した2月13日、信濃町ソニースタジオで、浜田省吾のニューアルバム完成を祝うささやかパーティが催された。

その二日後の2月15日から約一ヶ月の間「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」のためのリハーサルが始まった。
ぼくは浜田さんのツアーのリハーサルの間に、佐野元春さんのレコーディングにも参加した。

佐野さんがDJ を務めていたFM番組の中で企画・制作されたコンピレーション・アルバムに、石渡長門くんが参加することになり、ぼくも久しぶりに佐野さんのレコーディングに呼ばれることとなった。

ぼくが参加したのは石渡長門くんの「Rumblin'Around」と藤森かつおさんの「漂流者へ」の2曲。
佐野さんとのレコーディングはとてもエキサイティングで面白かった。佐野さんのレコーディングは、浜田さんのレコーディングとはやり方が全く違って、まず譜面というものが存在しなかった。

佐野さんが傍らに置いたリズムマシンのビートに合わせてギターを弾きながら、曲のコードを言って行く。そしてバンドのメンバー各自それをメモしながら進めて行くというやりかただった。

ぼくは普段やったことのないそのレコーディングの進め方に面食らって、最初はみんなについて行くのが精一杯だったが、他のバンドのメンバー(佐野さんのバンド、ザ・ハーランドのメンバー達)は、涼しい顔をして佐野さんの指示通りに演奏していた。でも次第にぼくもそのやり方に慣れて来て、最後の方はだんだんと楽しくなって来た。

浜田さんとは対照的なレコーディングのやり方だったが、後日完成した曲を聴かせてもらったら、非常にカッコいい仕上がりになっていて驚いた。
色々なサウンドプロデュースの方法があることをぼくはまた一つ学んだ。

浜田省吾のツアーのリハーサルは、3月9,10日の二日間、市川市文化会館での公開リハーサルを挟み、3月13日まで続いた。
そして1988年3月17日から1989年2月7日までの、約100本に渡るコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」の幕は切って落とされた。

FATHER'S SONのレコーディングが行われた信濃町ソニースタジオの壁に書かれた
マイケル・ジャクソン直筆のサインの前で。

2016/12/05

1987年のセッションワーク

今回は1987年のセッションワークについてお話したいと思います。
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1979年にぼくが浜田省吾のバックバンドに加入してから、必ず毎年全国を廻るコンサートツアーが行われていたが、1987年は初めて浜田省吾のコンサートツアーが無い年となった。
ぼくは5月にの末にアルバム「Club Snowbound」のレコーディングを終えた後、束の間の短い休暇をとってから精力的にセッションワークに勤しんだ。

87年6月は杉真理さんとEPOさんのコンサートに参加した。
杉さんとはそれまでも面識はあったが、一緒に演奏するのはこのときが初めてだった。
杉さんのバンド「ドリーマーズ」のキーボード奏者である島田陽一さんの代わりに、ぼくがトラ(代役)として加わる形でのコンサートだった。
杉さんとの最初のリハーサルはちょっと緊張したが、杉さんの持前の明るさに随分と助けていただいた。杉さんの音楽は前から大好きだったので、コンサートに参加することが出来てとても嬉しかった。
EPOさんとは初対面。何曲かバックで演奏させてもらったが、あまりご本人と話す機会はなかった。ぼくはEPOさんの曲も大好きだったので、バックで演奏することはやはりとても嬉しいことだった。

7月は沖縄出身の14歳の新人女性シンガー「GWINKO(吟子)」のバンドに参加した。
GWINKOは沖縄アクターズスクール出身のシンガーで、R&Bやファンクナンバーを14歳とは思えない歌唱力で軽々と歌っているのにはとても驚いた。
The Fuseのベースの江澤くんと一緒にGWINKOのバックバンドで、TBSテレビの「ライブ-G」や日本テレビの「11PM」等、何本かのテレビ番組に出演した。

8月はキティレコードの新人バンドのプロデュースを担当。箱根のスタジオで合宿レコーディングを行った。

9月と10月は中村雅俊さんのレコーディングと、本田美奈子さんの日本武道館と大阪城ホールでのイベント「MOTTO MOTTO DISPA 1987」に参加した。
本田美奈子さんのコンサートはとても大掛かりなもので、リハーサルだけでも二週間ぐらい行った。コンサートのゲストには少女隊とマイケル・ジャクソンの姉であるラトーヤ・ジャクソンも登場した。
そしてこの時のバンドはとても強力なメンバーが集まった。
メンバーは以下の通り。

Drums:Tony St. James
Bass:Bobby Watson
Guitar:大村憲司、堀越信泰
keyboards:Carl Evans, Jr.、板倉雅一
Percussion:金津ヒロシ
Background vocals:桂木佐和、清水美恵、高橋洋子

Trumpet:兼崎順一、寺嶋昌夫
Saxophone:包国充、Paul Suzuki
Trombone:村田陽一

ドラムのTony St. Jamesはアース、ウインド&ファイアーのボーカリストであるフィリップ・ベイリーのバンドのドラマー。
ベースのBobby Watsonはルーファス&チャカ・カーンのベーシスト。
キーボードのCarl Evans, Jr.は、ライオネル・リッチーのバンドのキーボーディスト。
三人ともアメリカ人の黒人ミュージシャンだった。

ギターの大村憲司さんは日本を代表する偉大なギタリストで、今回のサウンドプロデューサーでもあった。
コーラスの高橋洋子さんは松任谷由実さんのバックコーラス等を担当していた方で、後にエヴァンゲリオンの主題歌を歌って大ブレイクする。

ホーンセクションの兼崎順一さんと包国充さんとは、何度か浜田省吾さんのライブでもご一緒している旧知の間柄。村田陽一さんは言わずと知れた超有名なトロンボーン奏者。

そんなそうそうたるメンバーと一緒にやることになって、ぼくはかなり緊張していた。
リハーサルの初日、代々木のスタジオに行くと大村憲司さんがバンドのメンバーを一人一人紹介してくれた。
アメリカ人ミュージシャン達は当然日本語が話せないので、大村さんが流暢な英語で通訳をしてくれた。さすがYMOのツアーとかで世界を廻っている人は違うなぁ、とぼくは心の中で感心していた。

大村憲司さんはYMOのサポートギタリストとしても有名だったが、他にも数々のセッションを行っていた。
ぼくは1975年か76年に、東京の下町の三ノ輪という町にあったライブハウス「モンド」で、大村憲司さんのバンド「カミーノ」のライブを観たことがあった。
カミーノはギターが大村さんと是方博邦さん、ベースが小原礼さん、ドラムが村上ポンタ秀一さんと井上茂さんという超強力なラインナップのバンドで、当時はクロスオーバーと言うジャンルで呼ばれていたファンク系バンドだった。

ぼくはどんなサウンドやリクエストにも対応出来るように、リハーサルスタジオに山のような機材を持ち込んだ。
リハーサルが始まってもなかなか本田美奈子さんは現れなかった。ぼく達バンドは本人不在のままリハーサルを進めて行った。
アメリカ人のリズム隊コンビは強力だった。黒人ミュージシャンが生み出すグルーブは素晴らしく、絶対に日本人には真似の出来ない、しなやかなでうねるようなリズムを次々と繰り出して来た。
もう一人のキーボーディストのCarl Evans, Jr.のプレイとグルーブも強烈だった。ぼくは彼の演奏にすごくびっくりした。

後日、本田美奈子さんがゲストの少女隊の三人とラトーヤ・ジャクソンを伴ってリハーサルスタジオに現れた。
大村憲司さんがみんなにバンドメンバーを順番に紹介して行った。
勿論ぼくも紹介されて握手を交わした。間近で見る本田美奈子さんと少女隊の三人はとてもキュートだった。ラトーヤ・ジャクソンはマイケル・ジャクソンそっくりの顔立ちをしていた。ぼくはラトーヤと握手をした時ちょっぴり緊張した。

結局本田美奈子さんがリハーサルに参加したのはその一日だけだった。
やがて本番の日がやって来た。1987年10月2日、大阪城ホール当日の本番前にゲネプロが行われた。ゲネプロに現れた本田美奈子さんは、一回しかリハーサルに参加していないにもかかわらず、完璧に本番さながらのパフォーマンスを披露した。
勿論本番でも素晴らしい歌唱とダンスで観客を魅了した。

10月7日には日本武道館での公演が行われた。この日はビデオの収録とライブアルバムのレコーディングも行われることになっていた。
本田美奈子さんは武道館でも輝いていた。彼女はただのアイドル歌手ではなかった。
武道館でのコンサートも大成功に終わった。ただリハーサルから本番を通じて殆ど彼女と話す機会が無かったことが少し残念だった。

後日「DISPA!」と題された二枚組のライブアルバムと、コンサートの模様を収録したビデオが発売された。
ビデオにはバンドのメンバーは殆ど映っていなかったが、本田美奈子さんは勿論のこと、バンドの演奏も素晴らしかった。

ぼくは約半年間のセッションワークを終え、また浜田省吾のバンドに戻った。
10月の下旬から浜田省吾の新しいアルバムのためのプリ・プロダクションが始まった。
久しぶりに浜田さんとバンドのメンバーに会った時、ぼくは自分の家に帰って来たような安堵感に包まれているのを感じていた。

日本武道館公演の模様を収録したDVD。

2016/10/21

浜田省吾 #31 「CLUB SURFBOUND」

1987年6月28日に発売された浜田省吾さんのミニアルバム「CLUB SURFBOUND」のレコーディングの話です。

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1986年4月6日、沖縄県那覇市民会館でのJ.BOYツアーの最終公演を終えた浜田省吾一行は、次の日に恩納村のプライベートビーチを貸し切って、総勢数十名での打ち上げパーティを行った。
長い長いツアーが終わった安堵感から、この日のパーティはとても和やかで楽しいものとなった。

東京に戻ったぼくは、すぐに浜田省吾のニューアルバムのための曲作りにとりかかった。
今回のアルバムは夏をテーマにしたリゾートアルバムで、85年に出たクリスマスアルバム「CLUB SNOWBOUND」の続編とも言えるアルバムだった。
そしてバンドのメンバーが各自一曲ずつ曲を書いて、それに浜田さんが詞を書くという画期的な試みを行うことになった。

ぼくは意気揚々と作曲を始めた。
しかしなかなか納得の行く曲が出来なくて苦しんだ。
いつもはもっとスムーズに曲が出来るのだが、今回は浜田省吾のアルバムに収録される曲ということで、特別なプレッシャーを感じていた。

曲の断片を作っては捨てる作業を何度も繰り返した。
それでもやっとのことで何とか納得の行く曲が出来たので、早速浜田さんに聴いてもらうことにした。
ちなみに今回のアルバムのプロデューサーは、J.BOYの時と同じく浜田省吾だった。

ぼくが作った曲を聴いた浜田さんの感想は、サビのメロディが今一つ弱いのでは?ということだった。
もっとゆったりとした端正なメロディのほうが、ぼくが作った曲には合うということで、ぼくはサビのメロディを作り直すことにした。

何パターンかサビのメロディを作ってはみるものの、どうもいまいちピンと来ない。
そこでぼくは何かヒントになるのではと思い、敬愛するミュージシャンでもあるデビッド・フォスターのビデオを見ることにした。
ビデオの中にデビッド・フォスターが作曲をするシーンがあった。
デビッド・フォスターがカナダのバンクーバーの街を車を運転しながら、カセットテープレコーダーを片手に鼻歌で曲を録音している映像だった。

「これだっ!!」と思い、早速ぼくはデビッド・フォスターの真似をして、車にテレコとポータブル鍵盤を積み込んで真夜中の駒沢公園近辺に繰り出した。
駒沢公園の周辺をテレコ片手に、鼻歌を口ずさみながら車に乗ってぐるぐると周回してみたものの、一向にメロディが出てくる気配は無い。結局明け方までトライしてみたものの、いいメロディは出来なかった。「デビッド・フォスターの嘘つき〜!」ぼくは一人で毒づいていた(笑)

何日か経ってやっと自分でも納得の行くメロディが出来た。
浜田さんに聴いてもらうと今度はOKだった。ホッとした。
メロディが出来たのも束の間、すぐに曲のアレンジに取りかかった。
ちなみにぼくの作った曲の仮タイトルは「Itakura Ballad」だった。

4月23日、千駄ヶ谷にあるビクターレコードの301スタジオで、ニューアルバムのレコーディング第一弾が行われた。この日はアルバム先駆けてリリース予定のシングル曲のレコーディングだった。曲は「二人の夏」。愛奴のデビュー曲のリメイクだった。
リメイク版のアレンジは町支さん。19時から始まったレコーディングは順調に進んで行った。

この日のレコーディングメンバーは

ドラムス:高橋伸之
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
ピアノ:板倉雅一

いつものお馴染みのメンバーだった。

4月26日、19時から信濃町ソニー1スタジオで二人の夏のダビング作業が行われた。
一週間後の5月3日〜5日、横須賀の観音崎マリンスタジオで本格的にレコーディングが始まった。
ただし浜田省吾さんは私事で帰郷していたため、このレコーディングには参加することが出来ず、ぼく達バンドのメンバーだけでリズムトラックのレコーディングを行うことになった。

観音崎マリンスタジオは観音崎京急ホテルに隣接したリゾートスタジオ。すぐ目の前が海で東京湾が一望出来る素晴らしいロケーションのスタジオだった。
ぼく達バンドのメンバーは、レコーディングの前日に観音崎入りした。宿泊は観音崎京急ホテル。
ホテルからの景色もスタジオと同じく素晴らしくて、プライベートでも訪れたいような場所だった。

5月4日と5日でリズム録りする予定の曲は、江澤くん作曲のミディアムテンポのナンバー、町支さん作曲の軽快なシャッフルのナンバー、古村くん作曲のアップテンポのナンバー、ぼくが作曲のバラードナンバー、浜田さん作曲のアップテンポのナンバーの5曲だった。

浜田さん不在の中、レコーディングは始まった。
スタジオにいるのはバンドメンバーと、ロード&スカイのスタッフ数名、楽器担当のローディ数名、ディレクターの須藤晃さん、エンジニアの助川健さん、カメラマンの内藤順司さんの十数名。
それぞれの曲のテンポを慎重に確認しながら、レコーディングは進んでいった。
観音崎マリンスタジオはピアノのブース(個室のような仕切り)が無く、レコーディングの際に他の楽器の音がピアノを録音するマイクに被ってしまうため、アコースティックピアノは仮で弾いておいて、後日東京のスタジオで差し替えることになった。
ぼくは出来ることならバンドのメンバーと同時にピアノを録音したかったので、これには少しがっかりした。

マリンスタジオでは朝と夜の二回、スタジオスタッフ手作りの食事が提供された。これがとても美味しくて、ぼくはレコーディングの合間の食事がとても楽しみ だった。しかし滞在している間中、ほぼ朝までレコーディングが続いたので、朝と夜の食事の区別がよく分からなくなってしまった(笑)

5日の昼過ぎにリズム録りを終えたぼくはスタジオを後にして、世田谷区三宿の人見記念講堂で行われたデビット・フォスターとリー・リトナーのコンサートを観に行った。
人見記念講堂は当時住んでいた家から歩いて数分のところだったので、ぼくは一旦帰宅してから出かけた。
この日のコンサートはアメリカのビールメーカー、クアーズが冠スポンサーに付いていて、会場の外ではクアーズビールが販売されていた。
ゴールデンウィークの最中、幸い天気も良くてアメリカンな雰囲気の中でのコンサートは最高だった。

5月8日〜20日まで、集中的にダビング作業が行われた。
8日は信濃町ソニースタジオで江澤くんの曲のダビング、9日は信濃町で梁くんの曲のリズム録り、10日は六本木ソニースタジオでぼくの曲のダビング、11 日と12日は信濃町でシンセのダビング、14日は六本木セディックスタジオで町支さんのギターダビング、16日と17日は浜田さんのボーカル録り、18日 はビクタースタジオでギターの土方さんにぼくの曲を弾いてもらった。
そして20日〜23日の間にトラックダウン作業を行い、アルバムは完成した。
息つく間もない日々だった。

アルバム「CLUB SURFBOUND」は全7曲入りのミニアルバムで、作曲はバンドのメンバーが一曲ずつと浜田さんが二曲、作詞は全曲浜田さんが担当した。

江澤くん作曲の、後に「プールサイド」とタイトルが付くナンバーは、ちょっとブラコンっぽい(ブラックコンテンポラリー)サウンドで、ちょうど当時流行っ ていたクール&ザ・ギャングのようなテイストの、独特のグルーブ感が難しい曲だった。江澤くんの書いて来た譜面は、ピアノの和音の積み重ね方も指定して あって、彼のこだわりが譜面を通して感じられた。
ドラムはリズムマシンによる打ち込みで、シンバル類を高橋くんが叩いた。
あとからスネアの音色をサンプリングして足したりもした。

町支さん作曲の、後に「Gear Up409」となるナンバーは、タイトルからも分かるようにビーチ・ボーイズテイスト満載の楽しい曲で、エンディングにはビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」のフレーズもパロディで挿入された。

古村くん作曲の、後に「Hot Summer Night」と名付けられたナンバーは、いかにも古村くんらしい骨太のロックな曲で、古村くん本人もちょっとだけ曲中でボーカルを披露している。

梁くん作曲の、後に「曳航」とタイトルが付くナンバーは、梁くんのコンテンポラリーなテイストが良く出たお洒落な曲で、浜田さんもボーカルをオクターブにして二本入れる等、普段とはちがったアプローチをしていて大人な雰囲気を醸し出していた。

「二人の夏」と「Little Sufer Girl」は浜田さん作詞作曲のナンバー。二曲ともビーチボーイズへのオマージュ。「二人の夏」は愛奴のデビュー曲のリメイクで、ぼくも当時からとても好きな曲だったので、レコーディングしていてとても嬉しかった。

ぼくが作曲の「Harbor Lights」と名付けられたナンバーは、当時傾倒していたデビッド・フォスターやマイケル・オマーティアン等のLAサウンドを下敷きにした曲。
江澤くんの弾くシンセベースが素晴らしい。コーラスはぼくと江澤くん、町支さんの三人で歌った。
他のメンバーの曲はそれぞれ作者を彷彿とさせる歌詞だったが、ぼくの曲だけは作者は歌の中に全然登場していなくて、浜田さんが書いた詞を読んで「この曲の登場人物は全然オレじゃない」と思った(笑)

浜田省吾のアルバム『CLUB SURFBOUND』は1987年6月28日に発売されると、アルバムチャートの一位を獲得した。
同時に発売された、85年のミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』がカップリングされたCD『CLUB SURF&SNOWBOUND』も二位になり、チャートの一位と二位を独占した。


CLUB SURFBOUNDのレコーディング風景 at 観音崎マリンスタジオ。

2016/10/07

楽器の変遷

今回は今までぼくが所有したり、使用して来た楽器の話などを。

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ぼくが初めて弾いた楽器は、物心ついた時から家にあったカワイのアップライトピアノだった。小学校一年か二年の時だったと思う。
ぼくの家は決して裕福な家庭ではなかったが、姉が弾いていたピアノが置いてあった。それを見て自然とぼくも見よう見まねで弾くようになっていた。
そしてピアノ教室に通うようになった。と言うか通わされた。

当時ぼくはピアノ教室に行くのが嫌で嫌でたまらなかった。
教室の先生は女性の方で、ドイツ仕込みのやさしくもとても厳しい先生だった。そして授業での音符はすべてドイツ読み(ドレミファではなく、ツェーデーエーエフ)で行われた。
ピアノのレッスンと併行して、コールユーブンゲンという声楽のレッスンもやらされた。
ぼくはピアノ教室に通うよりも、友達と野球をやることのほうがずっと楽しかったので、いつもレッスンに行くふりをしては、教本の入った鞄を原っぱに放り投げて野球をやっていた。
もちろんサボったことが後でバレて、たっぷり叱られたのは言うまでもない(笑)

次に手にした楽器はウクレレ。
小学校三年生の学芸会で、僕たちのクラスは演劇をやることになった。
演目は「四辻のピッポ」という、足の悪い少年ピッポが主役の劇。ぼくはギターを持った少年の役で出演した。そこそこ台詞も多くてとても緊張した記憶がある。
ギターを持った少年の役なのに、なぜか親はぼくにウクレレを買って持たせた。思えばこの時がぼくのウクレレとの出会いであった。

その次に手にした楽器はリコーダー。いわゆる縦笛である。小学校の音楽の授業で生徒全員が買わされたような気がする。
リコーダーでいろんな曲を練習したが、あまり上手くならなかったのでぼくはすぐに飽きてしまった。横笛も練習した記憶があるが、やはり全く上達しなかった。

その次はクラシックギター。近所に住んでいた同級生の女の子がクラシックギターを習っていて、それがとても眩しく見えて一緒に教室に通いだした。
親にせがんで安いガットギターを買ってもらい、教室に通ったのだが一週間で飽きた(笑)
その時に一緒に通っていた女の子の弟が、何を隠そう今一緒に音楽活動をしている石渡長門くんである。

中学生になるとフォークブームがやってきた。ぼくも吉田拓郎やかぐや姫やガロの曲に夢中になった。そしてフォークギター(ナイロン弦ではなくスティール弦のギター)が欲しくてたまらなくなった。
最初はクラシックギターを習っていた時に買ってもらった、ナイロン弦のガットギターに無理矢理スティール弦を張っていたのだが、すぐにネックが反ってしまい使い物にならなくなってしまった。
そしてギターが壊れたという既成事実を作って、親にフォークギターを買ってもらうことに成功した。
その時のギターはモーリス製のマーティン000-18(トリプル・オゥ)のコピーモデル。
子供のくせに渋いチョイスであった。このギターでいろんな曲を練習した。

しかし所詮は安価なコピーモデル。良い音がするはずもなかった。
やがて高校の入学祝いに、おばあちゃんからギターを買ってもらえることになった。
今度選んだギターは、もうひとまわり大きいドレットノートタイプのマーティンD-28のコピーモデル。
当時はまだ無名だったK・ヤイリという国産メーカーのギターだった。
このギターは安価なわりにはなかなか良い音のするギターだった。ただ無知だったぼくは好奇心からこのギターにいろんな改造を施してしまった。ギブソンやマーティンのギターに付いている、グローバー製のペグをコピーした「クローバー」というインチキなペグに変えたり、ピックガードをヤマハ製のものに変えたり、ヘッドのK.YAIRIのロゴを消してしまって、マーティンのロゴを真似て手書きしてみたりと、一見するとどこのメーカーのギターだか分からないようなルックスになってしまった。
高校の入学祝いにおばあちゃんが買ってくれた K・ヤイリのアコギは、若気の至りですっかりヨレヨレになってしまったけど、今でも所有している。

高校を卒業してぼくは大学には進学せず、音楽の専門学校の道を選んだ。
この時に買ったのがフェンダー・ローズ・ステージピアノMark1。エレクトリックギターで有名なフェンダー社から出ていたエレクトリックピアノである。
当時の価格で四十数万もしたとても高価な楽器だった。当然当時のぼくに買えるシロモノではなかったので、親がぼくの大学進学資金として用意していたお金から、卒業祝い&入学祝いと称して買ってもらった。後にローンで返済した(笑)

このフェンダー・ローズピアノはぼくがプロになってからも大活躍することとなる。
甲斐バンド、浜田省吾、庄野真代、松原みき等の数々のツアーやレコーディングで使用した。
甲斐バンドの「嵐の季節」「悲しき愛奴(サーファー)」「LADY」「翼あるもの」等で聴けるローズのサウンドはこのピアノで演奏したものである。
もっとも酷使しすぎて最後はボロボロになって処分してしまったけど。

プロのミュージシャンになってから最初に買ったキーボードは、ローランドRS-101というストリングス(バイオリンやチェロ等)の音をシュミレートしたキーボード。
当時ソリーナという、ストリングスの音が出せるキーボードが大流行りしていて、ストリングスの音が出るキーボードはストリングアンサンブルと呼ばれていた。
ちなみにソリーナの音色はチューリップの「サボテンの花」や、ロッド・スチュワートの「I'm sexy」などが有名。

ソリーナはとても高価で当時のぼくには手の出る値段ではなかったので、しかなたくローランドRS-101をローンで購入した。
しかしローランドRS-101の音色はソリーナとは似ても似つかぬ音で、ぼくはとてもがっかりした。それでもRS-101ならではの音色の使い方を考えて、甲斐バンドや浜田省吾さんのライブでも使用した。

浜田省吾さんのバンドに加入して、最初に買ったキーボードはアコーディオン。
Tomboというメーカーのアコーディオンで、The Fuseのドラマーだった鈴木俊二くんと一緒にお茶の水の楽器店に買いに行った。
このアコーディオンは浜田さんのツアーでもたくさん使用した。
「途切れた愛の物語」での間奏や、海の中道での野外コンサートのアコースティックコーナーで演奏した「風を感じて」などでも使用した。
現在でもこのアコーディオンはまだまだ現役で、ライブにレコーディングに使用している。

次に買ったキーボードはシンセサイザー。当時の音楽シーンはYMOの人気と共にテクノやニューウエイブの嵐が吹き荒れていた頃。キーボードも各メーカーからシンセサイザーが続々と発売された。
ぼくが買ったのはコルグのPoly-61というデジタルとアナログの中間のようなシンセサイザー。1981年か82年頃だったと思う。
これは後にMIDI端子付きに改造して数年間使用した。

Poly-61とほぼ同時期に、KAWAIのエレクトリックグランドピアノ「KP-308」を購入した。これは非常に高価な楽器だったが、広島のKAWAIに便宜を図っていただいたおかげで購入することが出来た。
この頃の浜田さんのコンサートでぼくは二台のKP-308を使用していた。一台は自分で買ったもの、もう一台はKAWAIとエンドース契約を結んで提供してもらっていたものである。

自宅での練習用にエレクトリック・アップライトピアノも購入した。これもKAWAI製で見た目はちょっと小ぶりのアップライトピアノ。デジタルピアノでは無く、普通のピアノと同じく弦が張ってあったので、定期的に調律をしなければならないのが面倒だった。
ただ生音はとても小さかったので、夜中でも気兼ねなく弾くことが出来た。

次に買ったのはギター。1982年に渋谷のKAWAI楽器店で購入した。
ある日、何気なく入った楽器店のショーウインドウに飾ってあったギターを見た時〜♪
それこそ稲妻がオレの身体を駆け抜けた(笑)

KAWAI楽器のショーウインドウに、やや小ぶりでオールメイプルボディのタカミネのエレクトリック・アコースティックギターが飾ってあった。
すごく綺麗なギターで、店員に尋ねたところ試作品で50本程しか作っていない大変貴重なギターとのこと。
さっそく弾かせてもらったら、やや固めの乾いた音がしてアルペジオやソロ弾きに適した音色だった。弾いた瞬間からもう欲しくてたまらなくなった。それでも衝動買いするのをぐっと堪えて、ひとまずキープしておいてもらい、その日は買わずに帰って頭を冷やして一晩考えた。
でもやっぱり次の日、速攻で買った(笑)決して安い買い物ではなかったがとても嬉しかった。
この頃のタカミネのエレアコにはとても優れたプリアンプが内蔵されていて、今でもこのプリアンプでなければダメというギタリストも多い。
このギターは浜田さんのツアーにも持って行って、町支さんと浜田さんがコンサートで使ってくれた。
浜田さんのツアーパンフにも、浜田さんがぼくのタカミネを弾いている写真が掲載されてとても嬉しかった。

ギターと言えば、その頃何故かぼくの家には浜田さんと町支さんのギターが何本か置いてあった。
どうしてぼくの家に置いてあったのか理由は忘れたが、町支さんの青いオベーションアダマスの12弦ギターと、浜田さんの赤いオベーション・アダマスの6弦ギター、Tokaiのテレキャスターモデル等、数本のギターが頑丈なハードケースに入って我が家の廊下を陣取っていた。と言ってもぼくはそのギターをケースから出して弾くこともなく、廊下を通る度にケースが足に当たったりして、いつも邪魔だなぁと思っていた(笑)
その後も不思議なことに何故かぼくの家には、いつも浜田さんのギターが何本か置いてあった。

1980年代中頃にはヤマハDX5やオーバハイム・エキスパンダーも使用していた。アルバム「J.BOY」の中の「もうひとつの土曜日」等のエレクトリックピアノの音色はヤマハDX5で弾いた音である。
DXシリーズは他にもDX7とDX7IIをツアーやレコーディングで使用していた。

この頃になるとサンプラーという楽器が登場した。これはテープレコーダーのような楽器で、あらゆる音を録音して音階にして鳴らすことが出来るキーボードだった。
早速ぼくはローランドから出たS-50というサンプリングキーボードを買った。
これも浜田さんのツアーで大活躍した。

1980年代後半から1990年代になると、楽器を買いすぎて何を買ったかよく覚えていない。
思い出せるだけでも、フェンダー・ストラトキャスター、コルグT2、ローランドD-50、D-10、S-760、エンソニックSQ-R32plus、ヤマハTG77、オーバハイムMatorix等々。

他にも現在に至るまで、ステージピアノはテクニクスSX-PX1、コルグSG-1D、KAWAI-ES1等、アコギはマーティンD-41、ギブソンJ45等、久留米のギター工房「アストリアス」のウクレレやマーティンのウクレレ等、たくさんの楽器を保有したり使用したりしてきた。

90年代に入ると20Uぐらいのラックに音源モジュールやエフェクター、MIDIパッチベイ、ミキサー等を格納して、車に積んでライブやスタジオに持ち込んではその都度組み立てていた。あまりの量の多さにまるで毎回簡単な引っ越しをしているような感じだった。
鍵盤も常に数台を使用していたので、ケーブルを結線して音が出るようになるまでに軽く一時間はかかった。
ケーブルだけでも数十本、ペダル類の数も半端じゃなかった。
なのでぼくは現場には必ず指定された時間の一時間前には到着するようにしていた。

今は時代も変わって、音源関連も殆どコンピュータの中で完結するようになった。
ミュージシャンの手を借りなくても、コンピュータを使ってそれは素晴らしい演奏と音色を構築することが出来る時代になった。
しかしそれでもバーチャルではなく、本物の楽器で人間が演奏したグルーブに勝るものは無いと、今でもぼくは思っているのである。

1979年10月20日 浜田省吾学園祭@小金井公会堂
フェンダー・ローズピアノを演奏

2016/09/10

浜田省吾 #30 "I'm a J.Boy"

1986年9月、浜田省吾さんの二枚組LP「J.BOY」が発売になりました。
それと同時に過去に類を見ない大規模なコンサートツアーが始まりました。
今回はそんなON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"ツアーの話です。

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1986年9月4日京都会館から始まり、翌1987年4月6日の那覇市民会館で幕を閉じた浜田省吾「On The Road I'm A J.BOY」は、合計で85本のスケジュールが組まれていた。
そしてこのツアーから、ぼく達バンドにも大きな変更があった。

まず新メンバーとして、アルバムJ.BOYのレコーディングから加わったドラムの高橋伸之くんがツアーにも参加することになった。
そしてもうひとりのキーボードに梁邦彦くんが加わった。

また初めての試みとして、ホーンセクションがツアーにも帯同することになった。
メンバーは
トランペット:小林正弘
トロンボーン:清岡太郎
サックス:中村浩
そしてもう一人のサックスはおなじみ古村敏比古くんの4人。

他にもJ.BOYツアーで変わったことは、ベースの江澤くんが鍵盤ベースも使用する事になったこと。彼のポジションにはヤマハのシンセサイザーDX7がセットされて、ベースギターと鍵盤によるシンセベースを曲によって弾き分けると言う、当時としては画期的な試みに挑戦した。
今までもあまり語られることは無かったが、この時の江澤くんの試みはぼくは快挙だったと思っている。
現在に至るまでいわゆるベーシストで、ステージ上で鍵盤ベースをプレイする人物は殆どいないと思う。彼は天才的なものを持っていた。

ぼくの機材まわりも大きく変貌した。
まずそれまでのツアーで使用していた、KAWAIのエレクトリック・グランドピアノを辞めて、代わりにテクニクスから新たに発売されたデジタルピアノ「SX-PX1」を使う事にした。新たにぼくのポジションに「SX-PX1」が二台置かれることとなった。
テクニクスのピアノは、ぼくが実際に演奏してみて感じたフィーリングを何度もメーカーに伝え、ぼくの意見をフィードバックしてもらって、ぼくの好みのタッチと音色にチューニングしてもらった。おかげで素晴らしい音色と弾きやすいタッチのピアノになった。

シンセサイザーも一新した。新たにヤマハDX5とオーバハイム・エキスパンダー、そして時にプロフィットT8という布陣になった。

バンドの名前もそれまでの「His New Band」から約二年ぶりに「The Fuse」名が復活した。

ツアーは京都会館での初日を無事終え順調に進んでいた。
今回のコンサートは二部構成の毎回三時間超えの長丁場で、時には三時間半を超える事も珍しくなかった。
当時はまだ若かったとはいうものの、コンサートを終えた後の疲労感は半端じゃなかった。
ツアー中に一人でも倒れたらコンサートは成立しなくなる。
そのためぼくは今までにも増して、身体のケアに気をくばるようになった。
ツアー中に羽目を外すことも勿論あったが、ツアーが終了するまではコンサートの無い時でも常に緊張感を持って過ごしていた。

新しく加入したバンドメンバーとの関係は良好だった。ぼくもキーボードの梁くんとプラベートでも一緒に食事に行ったりする仲になった。
梁くんのクレバーでおおらかな人柄はすぐにみんなから好かれるようになった。

ドラムの高橋くんとはJ.BOYのレコーディングを共にしていたので、すでに気心知れる間柄になっていた。
彼の生真面目な性格はドラムのプレイにも良く現れていて、その一糸乱れぬビートはバンドのサウンドをよりタイト&シャープにした。

J.BOYツアーの中でもぼくがひときわ印象に残っているのが、1986年10月20日、ぼくの30才の誕生日に松本市社会文化会館で行われたコンサート。

10月14日富山、15日福井、17,18日長野でのコンサートを終えたぼく達は、19日は松本への移動日でオフだった。そこでメンバーのうちの何人かは一旦東京に戻る事になった。
東京への戻り組はぼくと江澤くん、古村くんと梁くんの四人だった。

次の日、松本までぼく達四人は一台の車に便乗して中央高速を快調に走っていた。
すると途中で事故渋滞に巻き込まれて、まったく動かなくなってしまった。でもすぐに渋滞は解消されるだろうと、まだこの時点では高をくくっていた。時間はまだたっぷりあった。
午後三時までに会館に着けば大丈夫なので、気持ちにもゆとりがあった。

しかし一時間経っても一向に渋滞は解消されないどころか、わずか数キロしか進まない。
松本まではまだかなりの距離があった。
やがて二時になり、やがて会館入りのリミットである三時を過ぎてしまった。
高速を降りて下道を走ることも考えたが協議の結果、下で行ったら開演時間には間に合わないだろうという結論に達した。

どうにか最寄りのSAに入り、マネージャーの岩熊さんに電話で到着が開演ギリギリになってしまうかもしれない旨を伝えた。
18時過ぎ、ようやく会館に到着した。楽屋口で岩熊さんが仁王立ちで待っていた(笑)
客席はすでに開場していてたくさんのお客さんが入っていた。

結局この日は先に入っていたメンバーの簡単なサウンドッチェックぐらいしか出来なく、リハーサル無しで本番を迎えることとなってしまった。
しかしアクシデントがあった時のコンサートはなぜか盛り上がるもので、この日はいつにも増して熱いコンサートになった。

セットリストは以下のとおり。

1986年10月20日 ON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"(松本市社会文化会館)
1.A NEW STYLE WAR
2.HELLO ROCK&ROLL CITY
3.DANCE
4.AMERICA
5.A RICHMAN'S GIRL
6.想い出のファイヤーストーム
7.晩夏の鐘(インスト)
8.悲しみの岸辺
9.もうひとつの土曜日
10.勝利への道
11.路地裏の少年
休憩
12.反抗期
13.MAINSTREET
14.MONEY
15.DADDY'S TOWN
16.19のままさ
17.遠くへ
18.八月の歌
19.マイホームタウン
20.BIG BOY BLUES
21.J.BOY

アンコール:R&B Medley
You Can't Hurry Love(ザ・スプリームス)
〜A Thousand Nights(浜田省吾)
〜Unchained Melody(ライチャス・ブラザーズ)
〜Trying to Live My Life Without You(オーティス・クレイ)
〜Proud Mary(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)
〜Just One Look(ドリス・ トロイ)
〜Hold On I'm Coming(サム&デイヴ)
〜メンバー紹介(各々ソロ廻し)
〜The Land Of 1000 Dances(ウィルソン・ピケット)
〜土曜の夜と日曜の朝(浜田省吾)

"I'm a J.Boy"ツアーの白眉はアンコールのR&Bメドレーだった。
このメドレーのタイトルは出典によっていろんな記述がなされている。
「Sweet&Sour(スウィート&サワー) Medley」と表記されているものもあれば、「Sweet&Soul(スウィート&ソウル) Medley」と表記されているものある。
ぼくの記憶では後者だったような気もするのだが定かではない。

このアンコールでのR&Bメドレーは、浜田さんが十代のころに良く聴いたり歌ったりした曲をチョイスして、その中に自分のオリジナルのR&Bナンバーを織り交ぜるという趣旨のメドレーだった。

一曲目の「You Can't Hurry Love」から、途中メンバー紹介の各人のソロ廻しを入れて、最後の「土曜の夜と日曜の朝」までノンストップ、ビートが途切れることなく歌いっぱなし、演奏しっぱなしの約三十分にも及ぶメドレーだった。これは約三時間の本編を終えた後に演奏するのは本当にキツかった。

この日のアンコールでとても嬉しかったのは、メンバー紹介のソロ廻しの箇所でぼくの番になった時、J.Honesと命名されたホーンセクションの連中が即興で「ハッピーバースデイ」を演奏してくれて、それに乗せて浜田さんとお客さんが歌ってくれたこと。全くのサプライズだったのですごく感激した。

軽くメドレーの曲を紹介すると、「You Can't Hurry Love(恋はあせらず)」は1966年にスプリームス(シュープリームス)が発表した曲で、全米二週連続一位に輝いた。
1982年にはフィル・コリンズがカバーしてヒットした。

Unchained Melody(アンチェインド・メロディ)は1955年の曲だが、有名なのは1965年にライチャス・ブラザーズが発表したバージョン。
浜田さんもライチャス・ブラザーズのバージョンを、町支さんとのデュエットで披露した。

Trying to Live My Life Without You(愛なき世界で)は1972年にオーティス・クレイが発表した曲。メンフィスソウルのいかしたナンバー。

Proud Mary(プラウド・メアリー)は1969年にアメリカのバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が発表した曲。
アイク&ティナ・ターナーやエルヴィス・プレスリー等、数多くのミュージシャンがカバーしている。

Just One Look(ジャスト・ワン・ルック)は1963年にドリス・ トロイが発表した曲。
リンダ・ロンシュタットがカバーしたことでも有名。

Hold On I'm Comingはサム&デイブが1966年に発表した曲。
全米R&Bチャート一位に輝いた。

The Land Of 1000 Dances(ダンス天国)はウィルソン・ピケットが1966年に発表した曲。オリジナルは1963年のクリス・ケナー。
ウォーカー・ブラザースやJ・ガイルズ・バンド等もカバーしている。

このR&Bメドレーは歌うのも演奏するのも本当にキツかったが、ぼくも大好きな曲ばかりだったので本当に楽しかった。

浜田さん初の二枚組No.1アルバムを引っ提げての、三時間半に及ぶロック絵巻を全国85本のツアーで披露する試みは、当時の日本の音楽シーンにおいて例を見ない桁違いのスケールのツアーだった。
そしてぼくもその中の一員であれたことを感謝すると共に誇らしく思っている。

あれから三十年、ぼくも今年で還暦を迎えるが、気持ちはあの頃と少しも変わっていない。

ぼくがJ.BOYツアーで使っていたテクニクスSX-PX1。  

J.BOYツアーのコンサートチケット。




2016/08/13

バンド編 #5  野音リヤカー事件 

バンド編#5です。

昭和51年の夏、19才だったぼくは銀座の東芝ビルの屋上に設置されたビアガーデンで演奏していました。
熱海のバンマスの紹介で「Coast」というバンドに加入して、そのバンドでアルバイトでビアガーデンでの生演奏をしながら、庄野真代さんのバックバンドの仕事等も兼任するという日々を過ごしていました。

今回はその時に起こった、何ともやるせない出来事を思い出してみようと思います。

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1976年の夏休みも終わりに差し掛かった頃、日比谷野外音楽堂(注1)でのイベントに庄野真代が出演する仕事が入っていて、ぼく達はビアガーデンに置いてある機材を野音まで運んで、現地で真代さんと合流するという予定になっていた。
8月22日の日曜日、野音での本番の日がやってきた。もう8月も終わりになろうとしているのにその日はとても暑い日で、午前10時の時点で気温はすでに30度を超えていた。

銀座東芝ビルの一階の裏手にある、機材搬入口の前で待ち合わせをしたぼく達は、そこで運転手のサコタさんが調達した2トントラックが到着するのを待つことになっていた。そのトラックに楽器を載せて野音まで行くのである。

 ビアガーデンのある東芝ビルと日比谷野外音楽堂までは、車だったら10分もあれば着ける距離だった。
待ち合わせの時間に早めに到着したぼくは、他のメンバーが到着するのを「カレント」(注2)を吸いながら待っていた。やがてギターの佐藤がやって来た。「おはよう、暑いね〜。他のみんなはまだ?」やや二日酔い気味の佐藤が眠そうな目で聞いてきた。

「そろそろ来るころじゃないかなぁ。ところで佐藤くんメシくった?」などとたわいもない会話をしながら、ぼくと佐藤はみんなの到着を待った。しかし、ここから事態はとんでもない方向に展開してゆくこととなる。

待ち合わせの時間を過ぎてもいっこうに誰も来る気配もない。
ぼくと佐藤は顔を見合わせてどちらからともなく言った。「待ち合わせ場所ってここで合ってるよね。それにしても遅いなぁ。」メンバー達が来ないのも気がかりだが、運転手のサコタさんが来ないことには楽器を積むことも出来ない。やがて30分が過ぎたが、一行に誰も来る気配が無い。
「それにしてもおかしいな?今までこんなに誰も来なかったことはないよ。板倉ちょっと四季(ビアガーデンの名前)に行って確認して来てくれる?」「うん、ちょっと見てくる。」ぼくは屋上の四季に行った。ひょっとしたらぼくと佐藤の勘違いで、屋上に集合している可能性もあると思ったからだ。

しかし屋上の方にも誰も来ていなかった。「佐藤くん、おかしいよ。みんなどこ行っちゃったんだろう?マネージャーのトミタさんは野音に直入りするって言ってたけど。」「う〜ん、何か連絡ミスがあったのかな?とりあえずオレ達で楽器を下に降ろしておこうか。このままじゃ入り時間に間に合わなくなりそうだし。」「そうしますか。」この炎天下の中、ぼくと佐藤の二人で楽器を下まで運ぶハメになった。幸いなことに昨夜のステージの後に楽器はケース(注3)に入れてまとめてある。

搬出入用のエレベーターで楽器を下まで降ろした。思ったよりも大変ではなかったが、もう全身汗びっしょりである。ビルの一階の隅に邪魔にならないようにして楽器をまとめ、さらにサコタさんの到着を待った。
やがて一時間が過ぎた。「板倉、もう移動しないとホントにやばいぞ。入り時間に間に合わなくなる。」「でもどうするの?この楽器。オレ達クルマないよ。」「四季の支配人にクルマ借りられるか聞いてみよう。オレ聞いてくるからお前はサコタさんに電話してくれ。」「うん、分かった。」

隣りの数寄屋橋ショッピングセンター(注4)の公衆電話からサコタさんの家に電話をする。しかし何回かけても誰も出ない。マネージャーのトミタさんの家にもかけてみるが、やはりもう出かけた後なのか誰も出ない。他のメンバーの家にもかけてみる。「あっ、宮沢さんのお宅ですか?板倉と申しますがヒロミツさんいらっしゃいますか?」宮沢さんの家族とつながった。
 
家族の話によると宮沢さんはさっき家を出たそうで、野音に行くといっていたらしいことがわかった。どうも何らかの連絡ミスで東芝ビル集合組と野音直入り組に分かれてしまったらしい。と言うことはぼくと佐藤が東芝組?
それにしてもサコタさんが直接野音に行くことは考えられないし、事故にでもあったのだろうか?

とにかくぼくと佐藤の二人だけで楽器を野音まで運ばなければならない確率が、非常に高くなったことだけは確かなようだ。
「だめだったよ、車無いって。四季の支配人に随分頼んだんだけど今出払っていて一台も無いって言われたよ。」「どうしよう、佐藤くん。もう時間ないよ。」滴り落ちる汗をぬぐいながらぼくは言った。

「それでさ、支配人が車はないけど、生ビールのタンクを運ぶリヤカーだったらあるから、それだったら使っていいっていうんだよ。」「えっ!?リヤカーって、あのリヤカーのこと?」「そうだよ。しょ〜がねぇからこうなったらリヤカーで運ぶしかないだろ。」
「いやだよ、オレ。絶対イヤだ!そんな恥ずかしいことするの。」暑さといらだちから、つい強い口調で佐藤にあたってしまった。

「そう言うなよ、オレだって恥ずかしいよ。でも今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ。とにかく野音までこの楽器を運ばないと大変なことになるぞ。」「そうだよね、ゴメン。とにかくやるしかないよね。」
佐藤がどこからかリヤカーを持ってきた。「結構デカイよ、このリヤカー。これなら楽器全部乗るな。」

ぼく達は大きな板張りの荷台の付いたリヤカーに楽器をすばやく乗せた。「なんとか乗ったね。オレ、支配人に挨拶してくるからちょっと待ってて。」再び佐藤が屋上まで行っている間も、ぼくは他のメンバーが来ることを期待していたが、やはりというか誰も来なかった。

「支配人に事情は話しておいたから。サコタさんが来たら野音に行くようにも頼んでおいた。」「じゃぁ、出発しますか。」ぼくと佐藤は野音まで銀座のど真ん中をリヤカーに楽器を乗せて運ぶハメになってしまった。しかも楽器はケースに入っているとはいえ、アンプなどはむきだしのままである。
「佐藤くん、これ持ち上がんないんだけど。重いよこれ。」「なんだよ、情けねぇな。貸してみ。あれっ?上がんないな。」荷台に積んだ楽器の重さで前の把手の部分がなかなか持ち上がらない。
「でしょう?二人でやってみようよ。」二人がかりでようやくリヤカーは持ち上がった。が、今度はバランスを崩してリヤカーの後部が地面についてしまった。リヤカーというのはバランスをとるのが意外と難しい。
 
ようやくリヤカーを動かすことが出来たぼく達は、野音に向けてゆっくりと進み出した。数寄屋橋ショッピングセンターのガードをくぐり、日劇の前を二人でリヤカーを引きながら歩く。道ですれ違う多くの人達が怪訝そうな顔をして振り返って行く。死ぬほど恥ずかしい。

銀座のど真ん中を真っ昼間の炎天下に、リヤカーに楽器を乗せて引いているヤツはそういないであろう。
佐藤が前、ぼくが後ろから押すというスタイルで国鉄有楽町駅のガードをくぐったところでひと休みした。相変わらず行き交う人達の視線がイタい。思わず首にかけたタオルで汗を拭う。

「佐藤くん、こんどはオレが前になるよ。」「わかった、代わって。」前でリヤカーを引くのは、後ろから押すよりもずっと恥ずかしいということが、引き始めてすぐに分かった。とにかくまわりは見ないようにして、前だけを見て引いて行く。
日比谷の映画街を抜け、やがて皇居のお堀沿いに出た。そこにリヤカーを止め、コーラをがぶ飲みしてカレントを吸う。「佐藤くん、結構疲れるね。もう半分来たかな?」「半分は来ただろう。あと20分ぐらいで着くんじゃねぇか。」「そうだね、あと一息だ。頑張ろう。」日比谷公園を横目にひたすらリヤカーを引いて行く。この頃になるともう恥ずかしさはどこかに消えていた。
 
東芝ビルを出て数十分、ようやく野音の搬入口に着いた。もう上から下まで全身汗びっしょりである。
ぼく達のリヤカーの横にはアリス(注5)の楽器を積んだ4トントラックがデン!と横付けされている。ぼく達はその4トントラックの横にちょこんとリヤカーを止めた。4トントラックとリヤカー、なかなかシュールな光景である。
しかし野音にリヤカーで楽器を運んだのは、後にも先にもぼく達だけないだろうか?

そういった意味では歴史に名を刻んだことになるのかなぁ?などとしょーもないことを考えていたら、運転手のサコタさんがトラックで現れた。「悪い悪い、ちょっと遅れちゃってさぁ。四季に行ったらもう出たっていうんで慌ててこっちに来たんだけど、もう着いてた?」「もう着いてたじゃないですよ〜。いくら待っててもサコタさん来ないから、佐藤くんと二人でそこに置いてあるリヤカー引いてきたんですよ。」「エッ!?これで来たの?ほんとにゴメン!!ここから先はオレが運ぶからゆっくり休んでて。」もう言葉を返す気力もなかった。
 
ぐったりして楽屋に入ると、すでに他のメンバー達が来ていた。「おはよう!あれっ?二人ともびしょびしょだけど、どうしたの?」宮沢がリンゴをかじりながら聞いてきた。「あのねぇ〜、・・・。」ぼくはかぶりを振ると短パンとTシャツに着替え楽屋を出て、アリスのリハーサルが続くステージの横を通り、野音の客席のベンチに寝転がった。

バンドの爆音と蝉の声を聞きながら、ぼくはいつしか浅い眠りに落ちていった。

(注1)数々の伝説のライブが行われた都心のど真ん中にある野外音楽堂。
(注2)低タール、低ニコチンを売りにしたタバコ。今思えばたいして低タール、低ニコチンでもなかったような気も・・。
(注3)ケースといっても現在のような立派なものではなく粗末なものだった。
(注4)首都高速の下にある2階建ての複合モール。ぼくは数寄屋橋ショッピングセンターと西銀座デパートの違いが未だに分からない。  
(注5)谷村新司さんや堀内孝雄さんが在籍していたフォークグループチンペイ、べーやん、キンちゃんの愛称で親しまれた。  

こんな感じのリアカーだった(出典:Wikipedia)

日比谷野外音楽堂全景(出典:hibiya-kokaido.com)